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上野敏郎の今週のコメント |
第1391回普段着のとかちミーティング |
〜キャッチボール〜
ミットを片手に近所の空き地に集まり、子どもたちみんなで楽しんだ
キャッチボール。今ではあまり見かけなくなった光景ですね。
当時の子どもたちは皆当たり前のように野球のルールを知っていたといいます。
近所で遊ぶ子ども達は年齢もバラバラ、上の学年の子どもと一緒に遊びんだり、
毎日のように家族と一緒に見ていた野球中継等で自然とルールを学んでいきます。
今では、外で遊ぶ場所も制限されている現状や、ゲーム機文化の発展、
YouTubeの流通で室内遊びが当たり前の世の中になりました。
普段仕事で家にいない父親が、息子と休日にキャッチボールをするという
光景もなくなった現代。時代の流れを感じているお父さんの声も多いようですよ。
時代は変わりましたが、まだまだ野球文化としてこのキャッチボールという遊びは
残り続けています。外で子ども達が集まり、キャッチボールを楽しむ笑い声が聞こえる
文化がまた戻ってくることを願います。
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〜豆知識〜
○戦時中の野球事情○
時は遡ること、太平洋戦争の戦局が悪化した1943年。
今現在も全世界規模で盛り上がりを見せる野球ですが、この戦時中の日本における
野球大会は相次いで中止されたといいます。
理由としては、戦争という非常時に野球を楽しむとは何事かと軍部の非難の的となった
ことにあります。当時の野球ファンにとっては唯一の娯楽であった野球を奪われる
ことは、心に穴が空くような感覚だったのでしょうか。
しかし、そこで野球文化が立ち止まることはなく、職業野球関係者が悩んだ結果、
プレー中の用語を日本語化するということでなんとか職業野球を生き返らせることができました。
プレイボール⇒始め
ストライク⇒一本、二本
ワンストライク⇒ヨシ
一本
ボール⇒一ツ、二ツ、三ツ
ツースリー⇒二本、二ツ
三振⇒それまで
アウト⇒引け
野球用語ですら敵性語と非難された1943年。その年の読売新聞旗争奪戦
から、用語も日本語化して行われることになりました。
補足とすると、敵性語は法律で禁止されたものではなく、戦争に
向かう中で高まっていくナショナリズムに押されて自然発生的に生まれた
社会運動だいわれていますが、それでもこの日本語による野球は、
野球らしくないという理由もあり、ファンだけではなく選手、審判の評判も
悪かったそうです。
この日本語のルールの他にも、
1.ユニフォームのロゴはすべて漢字
2.打者は球をよけてはいけない
3.隠し球の禁止
4.「盗塁」の文字を「奪塁」に変更
5.最後まで戦い抜くために選手の途中交代禁止
6.9回表で勝負がついても敵を徹底的に打ちのめすために9回裏の攻撃もあり
など、現代だと考えられないような厳しいルールも存在しました。
2〜4に関しては”武士道に反する”という理由からだと言われています。
その後、野球事情は、職業野球も1944年11月に中止されましたが、
1945年8月の終戦からわずか3ヵ月後の11月に復活を果たしています。
これも野球を愛する国民の努力の賜物でしょうか。