開催日 令和3年12月20日(月)
話 題 私の「依田勉三研究」[その1]
−昔の十勝日 日新聞から− |
昭和26年6月29日から3回に渡り、当時の十勝日日新聞は一面に三原武彦の「回想の依田勉三」を掲載している。
三原武彦は、明治33(1900)年11月16日に千葉県佐倉市生まれだが、昭和16年から21年まで庁立帯広高等女学校(現道立帯広三条高校)の教頭を務めた人物である。
鈴木は、写真家鈴木真一の孫にあたる。その鈴木は、十勝開拓の祖依田勉三の叔父だ。三原は、勉三の母文(ぶん)の弟にあたるのだ。 明治16年3月14日、勉三を語る記録には必ず登場する写真、勉三が背に菰をまとい乞食風の姿で映るあの写真のシャッターを切ったのは鈴木真一である。場所は伊豆松崎であった。
もう一つの写真も紹介したい。明治16年3月15日、勉三率いる晩成者一行27人は、住み慣れたふるさと伊豆を離れ遠い北海道十勝国オベリべリに向かうのである。途中一行は、横浜で渡道記念写真を撮っている。その写真館は鈴木写真館であり、店主は鈴木真一である。鈴木は横浜に住んでいた。
この二つの事例から、依田勉三と鈴木真一が極めて近い関係にあるかを理解していただけたと思う。
そこで、話を三原武彦に戻すことにする。三原は、大正13年の初夏から15年の初頭にかけて帯広の依田家に滞在している。柿本良平著「北の巨人 依田勉三」(昭和18年:越後屋書房発行)には、「東京帝国大学経済科出身で、勉三の外戚である横浜の鈴木真一氏の孫にあたる三原武彦という青年が、ぜひ晩成社に入って修行したいと申し出た」とある。勉三と三原の出会いを説明しているのだ。
当時の勉三は、中風を患っていた。三原は、体調の優れない勉三が語る言葉を日記や記録に残すために代筆したことを明らかにしている。(昭和26年6月30日付け「十勝日日新聞」より)
私は、勉三の言わば身内である三原自身が書いたこの十勝日日新聞の記事を読みながら、その一文字一文字から浮かび上がる自分なりの依田勉三像を描き出したいと思ったのである。
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(文責:上野敏郎) |
−昔の十勝日 日新聞から−
この身 北の原野に朽ちるとも 明治の写真師 鈴木真一の似顔絵 (著:福永慈二氏) (絵:菅野孝雄)
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北の巨人 依田勉三 (著:柿本良平氏)
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