上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1399回普段着のとかちミーティング


開催日 令和3年12月23日(木)
話 題 私の「依田勉三研究」[その3]
     −昔の十勝日日新聞から−

「しかし、十勝野は・・・」の真実
 昭和26年、の十勝日日新聞にある三原武彦の寄稿文@を読みながら、私の「依田勉三研究」を続けることにする。
 この寄稿文の中で三原は、今も伝え残る名文句「晩成社には何も残っていない。しかし十勝野は・・・・」と語る勉三の様子から、晩成社の事業はことごとく失敗しながらも、勉三自身は十勝発展の人柱として自分が役立てたことを喜んでいると受け止めたのであった。ただ、どこかその姿は淋しそうでもあったと付け加えている。
三原の次女の寄稿文
 さて、この名文句についてだが、いくつかの小説や記録には勉三が大正12年12月12日、死の床にあって深い眠りに落ちていた勉三が、突然小さな声でつぶやくように語ったとあるが、三原の寄稿文はそうはなっていない。
 その三原の記録を裏付けるものがある。それは、帯広百年記念館発行の「ふるさとの語り部」(第19号)を取り上げたい。そこに、島田ユリさんの「父・三原武彦の生涯と依田勉三」と題する特別寄稿が掲載されている。
 その中に、『そんなところに武彦が到着したのである。勉三は武彦の挨拶をうなづいて聞いたのち、かすかなほほ笑みを武彦に向け、「晩成社には、もう何も残っていない。しかし、十勝野は・・」と、窓の外に遠い目を向け、多くを語らなかった。』(P200)とある。
 ここでいう「そんなところに」とは、中風の勉三の体調は優れないことと、これといった目ぼしい事業を持たない晩成社の現状をいっている。島田ユリは、三原武彦の次女である。
 こうみてくると、勉三が残したあの名文句は亡くなる直前の言葉ではなく、勉三は自分を頼って遠い北海道まできた三原青年への感謝と、その期待に応えられない自分と晩成社の現状を「〜しかし、この十勝野は・・・・」で伝えようとしたのではないかと思うのである。違うだろうか。
「北の巨人依田勉三」には
 「北の巨人 依田勉三」の著者柿本良平は、勉三は「しかし、十勝は・・」と言って口をつぐんだが、それを聞いていた三原は「・・ごらんのとおり日増しに繁栄している!」と言葉は続くと自分の心の中で補ったはずだとする。

(文責:上野敏郎)



−昔の十勝日日新聞から−



特別寄稿「父・三原武彦の生涯と依田勉三」
(著:島田ユリ)


家系図

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