上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1400回普段着のとかちミーティング


開催日 令和3年12月24日(金)
話 題 私の「依田勉三研究」[その4]
     −昔の十勝日日新聞から−

 更に三原は、その後に勉三の心境に思いを寄せながらこう晩成社の足跡を語るのである。
勉三の開拓事業とは
  「彼等(※晩成社一行のこと)は、明治16年伊豆から13戸の農民を率いて帯広の全身オべリベリに移住し、農耕牧畜等あらゆる事業を起こし、獣肉、魚肉の缶詰、ハム製造、ベニヤ板製造、薬草栽培、養蜂等いやしくも土地を拓き、国を益する産業はことごとく試み、失敗に失敗を重ねたが不屈不撓遂に十勝繁栄の基礎を築いた。その血涙の生長史はたしかにあらゆる悪条件のもとに産業発展をはかるべき宿命にある現下の吾々の活模範である」とする。
 〜現下の吾々の活模範である。とは、文字通り「現在を生きる我々にとっては正に生きた手本である」ということだ。
 この短い文章からも、いかに勉三が与えられた環境の中で考えつくありとあらゆる事業に挑戦し、何としても晩成社の実績を示そうとしたことは十分汲み取ることができるのである。
ふるさと松崎と勉三

三原のこの評価は、勉三の生まれ故郷伊豆松崎町の「伊豆国まつざき散策絵図」がする依田勉三の紹介文と似ている。
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 「北海道開拓の先駆者 依田勉三」 嘉永六年(1853)依田家の三男として生まれた。兄佐二平とともに三余塾で学び、幼少期から開拓精神に目覚める。十勝開拓のため晩成社を設立。明治16年開拓団27名とともに北海道へ渡る。だが開墾作業は干ばつ、長雨、害虫に見舞われ、難渋をきわめた。苦節40余年、事業としては実りのないままに、大正14年72才で没した。しかしその不撓不屈の精神には称賛を惜しむ者がない。
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この資料は、15年ぐらい前に手に入れたものである。当然、三原が十勝日日新聞に「回想の依田勉三」を寄稿した昭和26年には無かった。しかし、どちらにも『不撓不屈』の文字が勉三の功績を讃えるように登場するのである。 『不撓不屈』―誰にでも似合う言葉ではない。

(文責:上野敏郎)



−昔の十勝日日新聞から−



郷土の偉人たち
(「伊豆国まつざき散策絵図」より)

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