開催日 令和3年12月27日(月)
話 題 私の「依田勉三研究」[その5]
−昔の十勝日日新聞から− |
昭和26年6月30日付け十勝日日新聞の三原武彦の「回想の依田勉三」Aを水先案内人にして『私の「依田勉三研究」』を進めたい。
三原が松崎訪問で感じたこと
ある日三原は、晩成社の仕事で勉三の郷里松崎を訪問している。その時の印象を「黒潮の洗う伊豆半島の尖端は全くの仙境であり、気候温和、明媚な風光が箱庭的に展開しており、天産はゆたかであるが多量ではない。こうした事情が出郷者達の気宇を狭小にし小成に安んじることにしたのではないか。」と、明治16年、晩成社一行が住み慣れた郷里を離れ遠い北海道オべリベリを目指した動機を振り返っている。
ここで興味を引くのは、「〜出郷者たちの気宇を狭小にし小成に安んじることにしたのではないか」とする箇所である。
開拓団の小さな望み
つまり、この部分を分かりやすく別の言葉に置き換えれば、「自然の恵みは豊かであるがその量は必ずしも多くはない。この地域環境、条件は必ずしも住民たちを満足させてはいない。そのことが、伊豆松崎を出ようとする動機になっていたのではか。せめて今よりはましな暮らしをしたいとする小さな望みとなり、未知の蝦夷地北海道はオベリべリに僅かばかりの成功を夢見たのではではないか」と、三原は言いたかったのだと思うのである。
しかし、オベリべリは さて、晩成社の一行がオベリべリに入りいざ開墾の鍬を入れてみると、その地は真夏でも寒々と氷雨が続き、ガスが幾日も立ち込める大樹海であったことに多くの者は大きな不安の日々を過ごすことになる。
それでも一行は、小さな期待を持ち続けながら原野を切り開こうとはするが、その毎日はふるさと松崎を思う時天国から地獄へ落ちたような心の持ち方に急展開していったのではないかと三原は回想している。
この心の有りようの変化は、晩成社を構成する13戸、27人の結束は崩すことになる。三原は、そうなるのも「道理」であると理解しながらも、それでも晩成社の「幹部達の偉大な精神力はそのすべてを克服した」と評価する。ここでいう「幹部達」とは、言うまでもなく依田勉三、鈴木銃太郎、渡辺勝の三人を指している。ひょっとしたら、松崎の地で総指揮を執る勉三の兄依田佐二平も頭の中にあったかも知れない。
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(文責:上野敏郎) |
−昔の十勝日日新聞から−
<晩成社の幹部4人> 依田佐二平の似顔絵(左) 依田勉三の似顔絵(右) (絵:菅野孝雄氏)
<晩成社の幹部4人> 渡辺勝の似顔絵(左) 鈴木銃太郎の似顔絵(右) (絵:菅野孝雄氏)
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