上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1402回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年1月4日(火)
話 題 私の「依田勉三研究」[その6]
     −昔の十勝日日新聞から−
 
晩成社幹部と三原の分析  
 三原は、晩成社一行の結束力が想像を絶する厳しさの中で崩れることに、それも「道理」だと理解を示しながらその幹部たちについてこう続ける。
 「彼等は指導者であり同時に垂範者でもあった。また彼らの高い教養と燃える気魄はその従う人達を決してただ利潤のみを追及する我利亡者たらしめなかった。こうしたいわば寒地農業試験場である晩成者
が酬(むく)い空しく、努力はほとんど半世紀間続いたのである。」と。
 果たして、この三原の解釈は正しいだろうか。幹部たちの高い教養について異論はないが、勉三はともかく幹部たちの間の「燃える気魄(きはく)」には少なくとも隙間風程度の違いはあったと思うのだが違うだろうか。
早すぎる4人の離脱者
 明治16年、13戸で入植して4年たった明治20年頃には9戸に減っていた。中でも、藤江助蔵夫婦、高橋金蔵、土屋広吉の4人はオベリベリに着いてから2ヵ月ほどで、翌17年11月頃に池野登一が、明治20年2月には吉沢竹二郎が晩成社の金を持ち逃げしてその地を去っている。それでも、残った者たちは懸命に鍬を降り下ろすのであった。しかし、4年かけて大変な苦労と犠牲を払って開墾した面積は9万坪(30町歩)余に過ぎなかった。目標の100万坪(約330町歩)にはほど遠かったのである。
程遠い目指す目標面積
 明治15年7月31日、勉三と銃太郎が役場にだした下付願書には「帯広村の荒蕪地百万坪を下付ありたい」とある。100万坪は約333町歩(30ヘクタール)だ。4年で目標の10分の一に満たないという事になる。この狂いが、晩成社の結束に影響を与えないはずはないと思うのである。
見方を変えれば
 しかし、少し穿った見方をしても、やはり晩成社の評価は高いのである。視点を変えて、「新撰北海道史」に目を移してみたい。そこには
 「更にまた上川原野とその発達を比較される十勝原野は、これまた舊幕府時代からその中心地帯は蝦夷地の穀倉たるべきものとして重視されたのであったが、開拓使時代を通じて鎖されたる富源として残され、久しく利用される機会に達しなかったが、大津の海口より十勝川を遡って依田勉三らに統率された晩成社の団体が入地するに及び、始めて開発の燭光に接することができた。(※明治16年、同社がオベリベリに拓殖の鍬を立てたのは特筆すべきエポック(重要な時期)
として記憶に値される。斯くして24年、帯広を基点として開始され、区枠選定とともに大津港への道路開削は、正に十勝の心臓から動脈管を導くものであった。」とある。

(文責:上野敏郎)



−昔の十勝日日新聞から−

      

<晩成社の離脱者>
藤江助蔵の似顔絵(左)  藤江ふでの似顔絵(右)
(絵:菅野孝雄氏)   

      

<晩成社の離脱者>
高橋金蔵の似顔絵(左)  土屋広吉の似顔絵(右)   
(絵:菅野孝雄氏)

    

<役場に提出した下付願書>
引用:北の巨人 依田勉三
(著 柿本良平氏)   

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