上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1403回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年1月12日(水)
話 題 私の「依田勉三研究」[その7]
     −昔の十勝日日新聞から−

盟友二人の晩年は

 少々脈略はおかしいが、ここで勉三の盟友渡辺勝と鈴木銃太郎の晩年について触れておくことにする。
 渡辺勝は、明治25年頃シブサラの開墾を成し遂げた後に然別に移って牧場を開いた。耕地と牧場50町歩の払い下げを受け牧畜のかたはら開墾を続けてやがては十勝屈指の牧場主となっている。
 勝は、69歳で世を去っているが、然別の地に今も残っている「彰徳碑」にはその功績と徳望がしっかりと記されている。
 鈴木銃太郎は、勝と同じくシブサラに30町歩の原野を開墾してから芽室村大成区に牧場を開いている。後に上伏古に移り200町歩の大牧場を開き、種馬2頭を飼って積極的な牧畜経営を成功させている。
 銃太郎は、71歳で没したが子どもは8人と多く、遺族は今でも伏古に暮らしている。
 さて、十勝日日新聞の記事に戻ることにする。
勉三の述懐と三原の見解
 大正13年六月、勉三は中風が再発して病臥したきりになるのであった。勉三の部屋には、大津村生花苗(おいかまない)牧場の墨絵が飾ってあったようだ。勉三は時折その絵を見上げては惨苦経営の跡を忍んでいたと三原は書いている。
 現在、生花苗(おいかまない)は大樹町に属するが当時は大津村であった。現在旧大津村は豊頃町の行政区にある。
 勉三は、この生花苗牧場で牧畜はもちろんだが、晩成社の試験場にしたいと考えていた。水田や製麻などもその中にあった。もし、試験場でいい成果を上げることができたらそれを下帯広村で働く晩成社の社員に教え、彼らの生活の確立に役立てる構想を描いていたのである。しかし、その計画が日の目を見ることはなかった。
 勉三は述懐する。「若し、この事業が石狩や空地でなされたらきっと成功したであろうに」と。この述懐を三原は次のように捉えるのであった。
 「然し、そのためには地理的不利は論外としても、彼等にもっと新しい知識を取り入れる雅量があり、度重なる失敗に懲りず、同じ事業を持続する勇気を必要だったのではないか」と。その通りと共感してしまうではないか。

(文責:上野敏郎)


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