上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1405回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年1月17日(月)
話 題 私の「依田勉三研究」[その9]
     −昔の十勝日日新聞から−
 
 昭和26年、7月1日付け十勝日日新聞の1面に三原武彦の「回想の依田勉三が掲載されている。」最初に勉三の句が紹介される。三原は、早春の原野に咲きほこる萬作を見て、「萬作や何処から鍬をおろそうか」と詠んだ勉三の句を「彼の風懐(ふうかい)は満更ではない」と褒める。風懐とは、心に考えていること、趣のある心をいう。
 この句は、晩成社がオベリベリに入って間もなく詠まれたものとされている。三原は、この句の紹介で勉三に冷徹さが強く世間に出ていることに抗しようとしたのだろうか。開墾は木を伐り倒し、枝を集めて焼き払い、窓鍬で打ち起こす方法であった。すべては人力である。重労働そのものであったのだ。
萬作とは福寿草の事
 柿本良平著「北の巨人 依田勉三」の98ページにこんな紹介がある。
 「勉三も鍬を取り原野に降り立った。そして、いざ鍬を下ろそうとして足もとを見ると、そこには、ふくいくと萬作(福寿草)が咲きこぼれていた。彼はしばらく鍬をもつ手をためらった。(「ふくいく」とは、よい香りのただよう様を言う。)
萬作やどこから鍬をおろそうか
 この花は彼が日頃最も愛好するところのものでもあったが、こういう思いやりに溢れ情味豊かな俳句を詠んだ時、彼は幼い日の恩師であった三余先生の面影を、あの塾生の一人として冬瓜に詫びをさせた印象的な場面を、そぞろに思い起こしていたことだろう。」
 ここに出てくる三余先生とは、伊豆で勉三が少年時代に通っていた「三余塾」の土屋美余先生を言う。「冬瓜に詫びた」とはどういうことを言うのか、その紹介をしてみたい。
 勉三が三余塾門下生となって五年目の9月の事である。勉三は12歳。勉三は自分が担当で育てる冬瓜に水を遣ろうとしたとき、皮肉一杯に「へのへのもへじ」と書かれた冬瓜を発見する。愕然とする勉三を見た周りの塾生たちは、一斉に笑い焦げるのであった。
 この騒ぎを聞きつけた三余先生は、その光景を見た後すぐその場を去り、しばらくすると羽織袴を身に着け、手には真っ白い濡れ手ぬぐいを持って戻ってきた。そして、落書きされた冬瓜の前に正座し、「私の指導が至らず、誠に申し訳ないことをした。」と謝り、手拭いで冬瓜に書かれた落書きを落とすのであった。
 それを見ていた勉三は、即座に先生の後ろに這い蹲い頭を地にこすりつけたのである。それを見て、わいわい騒いでいた塾生たちも一斉にその場に蹲り額を地に付けるのであった。
 暫くして立ち上がった三余先生は、「穀菜は命の本(もと)にして、豊は国の大本なり。天地自然は無を有となし、小を大と成す。これ無限の天恵なり」と若き門下生に説いたというのである。
 「農業こそ国歌の存率を支える根本的基盤そのものである。」とする三余先生の教えが、勉三を北海道開拓へ導いたとは言えないだろうか。

(文責:上野敏郎)



−昔の十勝日日新聞から−


<十勝日日新聞 昭和26年7月1日>
に掲載された記事

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