上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1407回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年1月24日(月)
話 題 私の「依田勉三研究」[その11]
     −昔の十勝日日新聞から−
 
勉三は、なぜ豚に執着したのか  
 帯広で最初に飼われた豚はどこから来たか、その答えは専門家の判断を待つとして、勉三はなぜ養豚業を始めようとしたのだろうか。その決め手は、明治14年に塚原苔園が書いた「小学農業書・巻二」にある。
 そこに次のような記述がある。  
 「豚は土地の寒暖を嫌わずよく生育し、繁殖も至って速やかなり。その食料は野菜、穀類、肉類の別なく生鮮と腐敗とを問わず、いかなる物も食わないものはない。ゆえに飼養のやさしいことは家畜中第一とする。〜」と。
 すなわち、豚は飼育が簡単でよく繁殖することなどが勉三の心を大きく揺さぶったのであった。
明治18年2月、「同盟牧畜社」を結成
 
 豚が下帯広に入る前、つまり明治18年2月1日に、勉三、鈴木銃太郎、渡辺勝の三人は「同盟牧畜社」を結成している。この結成は、養豚事業は晩成社の事業とはしないことを意味する。そのため3人は、お互いに契約書を交わしたのである。その内容は、勉三と銃太郎は豚を、勝は山羊を飼育すると決めたのであった。
「豚とひとつ鍋」の作句場所はどこか  
 さて、この契約書に基づくとき、一つの推察が頭をよぎるである。それは、あの「開墾(開拓)の初めは豚とひとつ鍋」の句は、どこで作られたのであろうかとする興味だ。勝の妻カネは、自分の家であるという。しかし、勝は山羊の飼育はしているが豚の飼育はしていないのである。
 この句の誕生に共通していることは、妻が豚の餌づくりをしている家に銃太郎も含めて三人が飯を食うために立ち寄った先でできた句だということである。しかし、勝は豚の飼育は担当してはいない。  
 ただ、勝の賢妻カネは明快に言う。この句は渡辺家で勝が発案し、勉三らが手を加えてできた句だと言い切っている。しかも、その場に自分もいたとする。更には、その頃勉三は豚を飼ってはいなかったとも言う。勉三が豚を飼い始めたのは大樹のオイカマナイ、当縁牧場に行ってからだとも言うのである。  
 勉三がオイカマナイ(現在の広尾郡大樹町生花)で牧場を始めたのは明治19年5月である。(「さいはての荒野へ」参照)馬5頭、牛14頭、そしてオベリべリから移した豚10数頭からの始まりであった。 さて、真実はいかに―

(文責:上野敏郎)



−昔の十勝日日新聞から−


<『さいはての荒野へ』
北海道開拓にかけた依田勉三と晩成社の人たち>
著:木暮正夫

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