上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1409回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和4年1月28日(金) 話 題 私の「依田勉三研究」[その13] −昔の十勝日日新聞から− |
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渡辺カネが語る「豚と一つ鍋」 昭和8年7月5日、カネは角田東耕の家を訪ねて次のような話をしている。角田の家が帯広であったかは不明だが、角田は、福岡県の出身で十勝郷土研究会を設立した小樽新聞、函館毎日新聞の記者であった。この時74歳のカネはこう語っている。 『「豚は当時(明治18年4月)、依田家では飼育していません。(依田家が)飼育するようになったのは生花苗(オイカマナイ)に行ってからです。帯広では、社宅にいた人が飼育していましたが、依田さんのではありません。豚は移住当初、共同で飼育していましたが、成績が良くありませんでしたので、各家に分割したのでした。 私(勝の家)のところでは、最初から単独で飼育をいたしました。秋より春になるまでは、帯広川や裏の小川に遡上する秋味(あきあじ―鮭のこと)が、ホッチャレ(産卵した後の死にかけた鮭のこと)になると、川岸に飛び上がって死んでいるのを拾い集め、これを鍋で煮て豚に与えていた。 春になると(豚は)放牧して放し飼いである。秋が深まると子豚を連れて帰ってくるので、冬期間の飼育のみで、春より秋の終わりまでは、ほとんど飼育しなくて済んだ。(中略) 私(勝の家のこと)のところでは、17年、18、19年と冬の飼育には、くず馬鈴薯、あるいは、南瓜、くず豆等を鍋で煮、その中に秋味のホッチャレを入れて豚に与えた。 当時の秋味は非常に行儀がよく、卵を産んでしまうと、全部、陸に飛び上がって死んでいた。近頃は川の中で死んでいる。こうした状態であったから豚の飼料にはほとんど困らなかった。(後略)』(井上壽著 加藤公夫編「十勝開拓の先駆者 依田勉三と晩成社」より) カネは、このように自分の家での豚の飼育方法や、その餌づくりの様子を語っているのである。 豚の飼育はいつからか ただ、ここで気になのは、カネの話によれば明治17年にはすでに豚の飼育をしていることになる。ところが、福永慈二著「この身 北の原野に朽ちるとも」(313ページ)では、勉三が釧路で仕入れた豚と山羊がオべリベリに入った最初であり、それは明治18年4月だとする。 その説はもう一つある。それは、勉三が明治17年4月に晩成社の第一回株主総会に出席するために伊豆に帰省しているが、その時に内地で豚と山羊を購入し、船積みして十勝の大津まで送ったという説であるが、その豚も一冬を大津で過ぎし、オベリべリに入ったのは翌明治18年4月であった。 一概に、カネの勘違いとは言えないが、帯広市史の中で明記されるべき大事な事柄であると思うのである。 |
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(文責:上野敏郎) |
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