上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1410回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年1月31日(月)
話 題 私の「依田勉三研究」[その14]
     −昔の十勝日日新聞から−
 
「サヨ」の人物像  
 「回想の依田勉三」Aの中で三原は、勉三の後妻サヨについて次のように書いている。   
 「後妻のサヨは姉御肌の鉄火なところがあり、荒くれ男を駆使する妙術も備えていた。その連れ子の夫となり後に依田姓を名乗った善助氏は終始一貫勉三の良い相談役として〇運の晩成社を支えた。」と。(※〇の中に入る文字は読み取れなかった)  
 サヨが勉三と結婚するきっかけとなったのは、函館の写真師井田の紹介であった。井田は、函館での勉三の世話を一手に引き受けてきた田本写真師の弟子である。その井田が、勉三にサヨとの見合いを進めたのである。サヨは30歳、勉三43歳の時である。  
 サヨの父馬場政昭は、七重の官園事務所に勤務していた。正昭の父親馬場八百蔵は八王子千人同心の一員である。安政三年、幕府の対露防衛対策の求めに応じた妻と二人の息子、政昭と民則を連れて七重村に入り、開拓開墾に取り組んできたのであった。民則は、勉三とも親しく、函館の代言人(弁護士)で函館区会議員でもあった。
勉三が言う再婚の理由  
 さて、サヨにとって勉三との再婚話は、離婚して実家に帰り間もなくの話であったが、二人の娘を抱えていた。その娘たちの名は、トシとヨシと言った。  
 「勉三は自分の将来、リクのこと、晩成社のことを見据え、サヨとの再婚を決意した。」と、「この身 北の原野に朽ちるとも」の著者福永慈二は書く。
 福永はこうも書く。「勉三は、いつまでもリクのことを引きずっている訳にいかない。リクにははっきり二人の仲は終わったのだと告げなくてはならない。惨いようだが、そうすることが今リクにしてやれる最良のことである。リクはまだ若い。再婚して新しい人生を歩むこともできるのだ。」と。勉三はリクのことを第一に考えたからこそ自分は再婚するとしたと読める。しかし、多くの人は、果たしてそうだろうかと疑問を持つのではないかとも思うのである。  
 とにもかくにも、明治28年夏、勉三とサヨは函館の丸成肉店で同棲を始めるのであった。この時リクは、伊豆に戻っているが離婚の申し出は拒絶中であった。勉三とリクの離婚は明治29年6月のことである。この年の6月にサヨは勉三の子、男児を出産する。

(文責:上野敏郎)




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