上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1412回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年2月7日(月)
話 題 私の「依田勉三研究」[その16]
     −昔の十勝日日新聞から−
 
リクの心境やいかにA
 それはさておき、すでに紹介しているが三原はこの時の勉三とリクの様子を、『かつて若い日の夢を晩成社王国において励ましあった両人は半世紀を隔てて対座したのである。「苦労したろう」と勉三、「貴方も」とリク、二人の老いの眼には光るものあった。」と書いている。
 勉三とリクは31年ぶりの再会である。この再会は、サヨの死後も病床にある勉三を案じた八百とキクの計らいであった、と「この身 北の原野に朽ちるとも」の著者福永慈二は言う。
 しかし、リクにとって勉三は別れた元夫である。その夫の再婚相手が亡くなったとは言え、「それでは私が看病に参りましょう」となるものだろうか。それも、となり町に住んでいるのではない、遠い伊豆松崎村に住むリクである。ところが、「事実は小説より奇なり」のことはあったのだ。
晩年の勉三  
 ここで、若干すでに書いてきたことと重複あるいは矛盾する心配もあるが、昭和35年発行の「帯広市史」から勉三の晩年を再現したいと思う。  
 勉三は、大正13年に中風に罹り歩行困難な状態になっている。その時期は不明だが、その年の5月よりは前であることに間違いない。なぜならば、「(勉三は)老齢病体にかかわらず、木下成太郎(きのしたしげたろう)を押して選挙運動に熱中、違反に問われ同年(大正13年)5月のことである。」と市史にある。これでは病状が良くなるどころではない。  
 木下成太郎とは、1912年5月の第11回衆議院議員選挙で北海道根室外三支庁管内から出馬して当選、その後第14回、第16回、第20回までの総選挙で当選し、衆議院議員を通算七期を務めた。立憲政友会総務の職責を担った。  
 木下は、国会に進む前には北海道議会議員(釧路支庁選出)を2期務めているが、勉三と木下の関係はまだこれからの調査を待つしかない。  
 さて、大正13年年8月23日、伊豆から見舞客の一行が帯広に来ている。この中にリクはいない。この時勉三は、見舞客の依田薫平(12代佐二平)と渡辺陽を呼び、「晩成合資会社業務担当社員」の職を辞任したいと申し出ている。剛毅冷徹と言われ、弱音を吐かない勉三も病には勝てなかったのである。しかし、この勉三の申し出はうやむやで終わっている。  
 大正13年9月16日、勉三の看病を献身的にやっていた妻サヨが突然昏睡状態に落ち入り、そのまま亡くなった。その一か月後の10月15日には、勉三を物心両面で支えてきた長兄佐二平が伊豆で亡くっている。  
 そしてその年の11月10日、勉三の前妻リクが伊豆から元夫の看病に駆けつけるのであった。※「帯広市史」(昭和35年発行)を参考。

(文責:上野敏郎)



−昔の十勝日日新聞から−


依田勉三が病をおして応援した
<木下成太郎>衆議院議員

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