上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1413回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年2月14日(月)
話 題 私の「依田勉三研究」[その17]
     −昔の十勝日日新聞から−
 
勉三と選挙  
 勉三の兄佐二平は、明治23年の第1回衆議院議員選挙に静岡県第七区から立候補し見事当選している。自ら政治団体を結成しての立候補だったが、もちろん勉三もその会員であった。
なぜ、木下成田郎か  
 このように、勉三は政治に大きな関心は持っていたが、大正13年2月に公示された第15回衆議院議員選挙で、なぜ釧路を地盤とする木下成太郎を支援したかを知る資料は少ない。
 先ずは、渡辺哲夫著「十勝史夜話」(中)から紹介したい。
・畳の上を這い、外では手を取られ、支えられる病気(※中風)に悩む勉三が、三原(※三原武彦)に連れられ、裁判所の門をくぐり、木下の選挙運動違反という名目で六十円の罰金を取られるなど、輝ける人生に汚点を残した。
・但馬国の人成太郎は、厚岸町で漁業や牧畜業を営み、町会議員から道会へ二度乗り出し、更に、大正元年に衆議院に進み、広義の道東を選挙区に覇をとなえ、清浦内閣は大正十三年一月解散したため、五月十日総選挙が行われ、結局は憲政会の小池仁郎と中立の奥野小四郎がポストを獲得し、成太郎そして勉三は敗退の涙を流した。とある。
 木下成太郎が国会議員になったのは、明治45年の第11回衆議院議員選挙である。その頃の北海道は六つの選挙区に分かれていた。「札幌」「函館」「小樽」「函館等」「札幌等」「根室等」であり、十勝は「根室等」に入るのである。  
 勉三が、木下成太郎を応援し、選挙違反で罰金を払った第15回衆議院議員選挙は大正13年5月。この時北海道内には十二の選挙区があった。根室、釧路、十勝等は「9区」であり、当選の定員は2名であるが立候補者数は3名であった。現職で釧路地盤とする木下成太郎、根室を地盤とする小池仁郎、十勝を地盤とする奥野小四郎である。これだけの情報をみれば、なぜ勉三は十勝を地盤とする奥野小四郎を応援しなかったのだろうかと率直に思うのである。ただ、そこには明治16年に十勝に開拓の鍬を入れてからの長い道のりでの事情が隠されていると思うしかない。
 そうでなければ、自らの寿命と戦わなければならない健康状態の勉三が、選挙違反までに追い詰められながら木下を支持した事情の説明がつかないからである。

(文責:上野敏郎)

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