上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1414回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和4年2月16日(水) 話 題 私の「依田勉三研究」[その18] −昔の十勝日日新聞から− |
実子に恵まれない勉三 三原武彦の「回想の依田勉三」Bにある、「〜その連れ子の夫となり後に依田姓を名乗った善助は終始一貫勉三のよい相談相手として〇運の晩成社をささえた。」とするカ所を考えて見たい。※〇内の文字はかすれて読み取れない。 勉三の再婚相手であるサヨには、二人の連れ子がいた。名前はトシ、もう一人はヨシといった。このことは既に述べている。勉三とサヨの間にも一人の子を授かったが、その子千世(ちよ)は胃腸の病のため二か月でこの世を去っている。千世は男児だった。 ところで、勉三には前妻リクとの間に生まれた俊介がいた。俊介は二歳で亡くなっている。そこで、サヨとの間に生まれた子にはチヨと名付け長寿を願ったのである。その子がたった二ケ月でこの世を去ったのだ。勉三の落胆の様子は想像を絶するものであった。これは、疑う余地のないことである。 このように、実子には恵まれなかた勉三だが、サヨの連れ子トシは善助と結婚している。善助は函館近くの茂辺地の出身で旧姓を和田といった。善助はトシと結婚し「依田姓」を名乗る。いつ結婚したかは調査中である。 晩成社が資産の整理 大正5年頃の晩成社は莫大な累積赤字を抱えていた。その赤字解消のため入植以来開拓してきた帯広農場や売買農場、幕別の途別農場、大樹の生花苗牧場などを売ることで乗り切ろうとするが、契約不履行などもあり目的を完全に果たすことはできなかった。 勉三の本家と分家 売却後は、わずかに残った帯広町東9条7丁目の私有地の一画で善助、トシ夫妻は市乳牧場を運営している。大正7、8年頃の話である。 それでは、依田家の本家はどうであったのか。本家とは、依田八百、キク夫妻をいう。先ず勉三は姉フミ(結婚後は樋口姓)の孫娘にあたるキクを養女にし、大正5年5月、松崎町桜田生まれの佐藤八百を婿に迎えている。当時八百は、釧路の金物店で働いていたところを勉三が見出したのであった。(※このカ所は、平成12年9月2日付け伊豆新聞を参考) ただ、大正5(1916)年、勉三は帯広町西2条10丁目に晩成社の事務所を購入しそこに居住している。(※「拓聖 依田勉三翁」参考)この地は、「依田農具店」でもある。その経営は依田八百が担うのであった。 (文責:上野敏郎) |
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