上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1415回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年2月21日(月)
話 題 私の「依田勉三研究」[その19]
     −昔の十勝日日新聞から−
 
晩成社解散近し  
 昭和26年7月1日付け十勝日日新聞の「回想の依田勉三B」に「〜大津村の牧場は同族高橋氏の子に渡り僅かにその名残をとどめた。」とある。ここでいう「高橋氏」が誰かについては調査中だが、いよいよ、晩成社の開拓事業はのっぴきならないところまできたことだ。
 これは、大正5年の話である。萩原実監修・田所武編著「拓聖依田勉三翁」(昭和44年発行)に晩成社関係の出来事を抽出した年表がある。そこに「大正5年、帯広農場、売買農場奸計により破格にて売却・西2条南10丁目事務所購入」とある。正式な晩成社解散は昭和7年だが、そこに向けて走り出した訳である。
 『大正5年3月5日、伊豆松崎松会桜に12名の晩成社社員(株主)集まっていた。この日、総会は次の決定を行なった。「本年欠損金6千5百円に至れり。伴瀬氏や所有の土地・建物、その他の財産を全て売却し債務返済に充てる。その権限を全て勉三に任す。全て財産を売却するも債 務の完済には到らず。よって、本社負債処理の業務は全て佐二平、善六、勉三に一任し、他社員は退社とする。」事実上の晩成社の解散宣言である。
土地売却と勉三人脈
 とは言え、土地を売って借金の返済に充てるその道のりは簡単ではなかった。そこに、登場する二人の男を紹介したい。一人目は、中戸川平太郎である。中戸川は釧路で手広く牧畜業を営んでいる。勉三は、この中戸川から明治18年に豚と山羊を購入したのであった。
 中戸川は、晩成社の土地売却に詳しくわざわざ釧路から帯広までやってきて土地の検分に力を貸している。勉三にとっては頼りになる相談相手であった。  
 もう一人は、令和5年から一万円札の顔になる渋沢栄一である。大正4年2月、勉三は東京の渋沢栄一低を訪問し土地売却の相談をしている。渋沢は、明治30年に十勝開墾合資会社を設立し、現在の十勝清水の熊牛に農場を開いている。勉三は、その農場の管理者と懇意にしていたのである。その関係から東京に出向き渋沢栄一に土地買い取りの相談をするのであった。
 しかし、その頃の熊牛農場は経営不振の中にあり、土地売却の話はまとまらなかったのである。
※この二人の人物紹介は、前述の著書「拓聖依田勉三翁」を参考にしている。  

(文責:上野敏郎)

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