開催日 令和4年2月24日(木)
話 題 私の「依田勉三研究」[その21]
−昔の十勝日日新聞から− |
十勝開拓の父、病篤(とく)し
病の回復が日に日に難しくなってくる勉三のもとには、毎日のように見舞客が詰めかけていた。「帯広市史」は、特に内田瀞、渡辺武平、依田佐二平らの名を上げている。
内田瀞(うちだきよし)は、札幌農学校一期生でクラークの教えを受ける。卒業後は開拓史に入り、明治21(1888)年には柳本通義と共に十勝に入り、入植地の選定に携わっている。
渡辺武平とは、勉三の盟友渡辺勝の息子である。勝は、大正10年に中風で倒れ、翌年の6月に亡くなっている。 ここで登場する依田佐二平とは、勉三の兄佐二平ではなくその息子、つまり二代目佐二平をいう。
さて、勉三のもう一人の盟友鈴木銃太郎であるが、この頃の銃太郎は健康を害していた。よって、長男勇一の介添えを受けながら見舞いのため依田家を訪れるのであるが、勉三の様態はすこぶる悪く面会を謝絶されている。銃太郎がその扱いに激怒したのは言うまでもない。
他には、札幌農学校の一期生で、1903年に大津村直別原野に入地し農場を開き勉三とも交流が深かった黒岩四方之進(くろいわよもしん)も、遠路直別からの見舞いにも関わらず、勉三を直接見舞うことは叶わなかったのであった。
勉三、73歳で没す
大正14年12月12日、勉三は帯広町西2条10丁目4番地の自宅で亡くなる。享年73歳であった。幾つかの資料の中には「9丁目」とするものもあるがそれは間違いである。
さて、橋本良平著「北の巨人 依田勉三」は、『〜。勉三の病重しとの報に接するや、伊豆松崎の実家でつつましく朝夕をおくっていたリクは、ただちに帯広の地にわたり、勉三の最後まで枕べにつききって看病につとめた。彼女のやさしい婦徳は、近隣の人たちのほめたたえるところとなった。』と書く。
その橋本は、この本の序の中で『翁(勉三のこと)は、最後までの日日の出来ごとをくわしく丹念に書きとどめているのであるから、それはそのまま一つの立派な「開拓物語」をかたちづくっている。そのうえ何らの作り話を付け加える必要はないのである。』としている。
その通りとは思うが、離婚した元妻リクが後妻のサヨが亡くなったからと言って、間髪を入れずに元夫の看病に駆けつけるものだろうかとも思うのだ。
(文責:上野敏郎) |
−昔の十勝日日新聞から−
[拓聖依田勉三翁]より 依田勉三 葬儀の様子
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[拓聖依田勉三翁]より 依田勉三 見舞客記念写真
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