夢見たユートピアとは
「が床以来一年有半、大正14年12月12日、まくらもとの梅の鉢植がほころびるのも待たずに意志の人勉三は数奇の生涯を閉じた。彼等のユートピア北の穀倉十勝はその生前実現されなかったが、その十年、二十年やがて農民大衆の努力によって着々と結実した。」と三原は書く。
さて、ここでいう「ユートピア」とは何であったろうか。明治15年に資本金五万円で設立された晩成社は、利益を株主に配当する営利企業である。その目的を果たすために描いた事業計画は、15年間で未開の地十勝野を開墾し一万町歩の農地を持つことである。この時勉三、三十歳。
一万町歩の広さとは
一万町歩とはどれほどの広さであろうか。一万町歩は坪でいうと300万坪である。その広さを現在の帯広で表そうとすれば、JR帯広駅にコンパスを立て、半径5.7キロメートルの円を書くことになる。西は大空団地の手前ぐらいまで延びる。北は隣の音更町木野地区、東は幕別町札内までとなる。その円内がすべて晩成社の切り拓いた農地となることを目指したのである。これを「ユートピア」計画と言わずして何と言おうか。
しかし、晩成社の努力は10年間で30町歩であった。晩成社創立時の資本金は五万円。この額は、今のお金で150億円に相当すると「十勝開拓のパイオニア・・・依田勉三の苦闘の生涯」(北海道・マサチューセッツ協会発行ニューズレターNO53)にはある。更にこのレターは、大正2年当時、晩成社には17万8千円の負債があったとする。この金額を、単純に晩成社の資本金を例にして計算するならば、何と500億円を超す額になる。
このように考えてくると、勉三が三原に語った「晩成社には何も残っていない。しかし、十勝野は・・・」とする言葉は、ただの呟きでないのだ。
カネの「ここほれワンワン」
含蓄あるこの勉三の呟き「〜十勝野は・・・」を、同志渡辺勝の妻カネは満ち溢れた人間愛をもって裏付ける言葉がある。『イヌは後からくる人たちのために先にこの地を開くのが役目、宝物を見つけるのは後から来た人です。イヌはイヌだけの役目を果しました。古典「平家物語」の熊谷直美の蓮生坊は「十六年は夢の如し」と言いますが、私たち晩成社の五十年もまた夢の如しです』がそれだ。
昭和12年8月の話である。カネ78歳。その8年後没す。
(文責:上野敏郎) |