上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1420回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年3月7日(月)
話 題 私の「依田勉三研究」[その24]
     −昔の十勝日日新聞から−
 
病床の夢追人=勉三  
 臥床(がしょう)とは、言うまでもなく病気で床に就くことだ。萩原実監修の「拓聖 依田勉三翁」によれば、勉三が中風のため体調を崩し始めたのは大正12年頃だ。勉三は療養の身である。しかし、病床にあっても勉三の開拓魂は少しも揺らぐことはなかったのである。
 その頃勉三は、兄の佐二平と協力して生花苗(オイカマナイ)の築港計画に尽力中であった。正にこの十勝野に最後の夢を追いかけていたのである。
 この計画は、大正11年11月、勉三が政友会幹部宛に上げた「生花苗築港陳情書」に端を発する。その内容は、生花苗の太平洋岸に新しい港を造り、十勝全域の貨物を遥か北見地方まで運び、東部北海道の一大発展に役立てようとするものであった。
 大正12年1月、この計画を帯広で築港演説会を開きぶち上げる。当然、周りは「余命短いものにできる話ではない」とか「物笑いの種になるだけだ」とする。しかし、勉三は「身上褒貶の如きは顧みる暇もあらず」と意に介さず請願活動に精力を注ぐのであった。身上褒貶(しんじょうほうへん)とは、「わが身を誉めたり貶(けな)したりすること」である。
 大正12年2月、この請願は勉三たちの努力が実り衆議院では採択された。貴族院は保留であったが、その年の11月、北海道議会が築港草案を採択したのである。しかし、その時にはこの運動の盛り上げる力がすこぶる弱っていたのである。勉三の最後の開拓魂が燃え尽きた瞬間と言えないこともない。
続く、悲報の知らせ
  また、この頃勉三の周囲には大きな変化が出ていた。勉三の周りでは勉三にとって何物にも代えられない人々が亡くなるのであった。
 大正11年3月、勉三の片腕となって奔走した弟善吾が死去。享年61歳。
 大正11年6月、勉三の同志、渡辺勝が死去。享年67歳。 大
 正12年12月、晩成社の養豚事業に大きく関わり、勉三の相談相手であった釧路の中戸川平太郎が逝去。享年68歳。
 大正13年9月、後妻のサヨが逝去。享年59歳。
 大正13年10月、勉三の父親代わり、長兄佐二平が伊豆で逝去。享年78歳。
 等々である。いずれの悲報も、勉三が受けた衝撃は計り知れないものであった

(文責:上野敏郎)/span>



−昔の十勝日日新聞から−



釧路 中戸川農場主「中戸川平太郎」