開催日 令和4年3月14日(月)
話 題 私の「依田勉三研究」[その25]
−昔の十勝日日新聞から− |
妻サヨの死と勉三
勉三の後妻サヨは、大正13年9月16日に忽然と亡くなっている。その原因は、同じ年の春から中風で悩む夫勉三の看病疲れだとされる。 このサヨの記述はそう多くない。勉三の出身地である伊豆松崎にある「松崎三聖人(土屋三余・依田佐二平・依田勉三)を顕彰する会」発行「依田勉三物語」(下巻)には、「大正13年9月、留守がちの勉三を助けてよく家を守り、野に出て鋤(すき)鍬(くわ)を振るい、牧場の牛馬の世話を焼いた妻サヨが中風の病に罹り、別れを告げる暇もなく突如逝ってしまった。享年59歳であった。」(226P)とある。
更にこの書は、別刷りで「依田勉三物語」の登場人物の紹介をしている。そこでは、旧姓の「馬場サヨ」とし、「トシ・ヨシの二女を抱えて離婚、13歳上の勉三と再婚。二人の子千世は幼没。健康で、十勝野に一緒に帰り、農に勤しむ勉三をよく支えた。帯広で没す。義理の娘トシは勉三の助力で英国キリスト教団設立の女学校に進む。」と紹介する。
勉三がいかにサヨに頼り切っていたかは、次の「勉三日記」の一文から知ることができる。
〇大正13年5月4日
「晴。午前新聞を読む。伊香保温泉へ往く。サヨ同行。余の体を洗う。」 ここに出てくる「伊香保温泉」とは、大正9年に西2条9丁目に中村雅一氏が開業した銭湯ことであろう。勉三の自宅(西2条10丁目)からは近い。サヨは、不自由な体の勉三と一緒に銭湯に行き背中を洗ってくれている。そのサヨが突如亡くなった日の勉三の日記を紹介する。
〇大正13年9月16日晴
「朝サヨ余の小便をとる。了ってサヨ昏倒す。医師を迎える。(野口)医師来る。ついに臨終。」と記す。
サヨの葬儀は9月18日、その日は雨だった。
『このサヨの死は、あたかもリクを再び勉三の元に呼び寄せるための「計らい」であったかのようであった。病床の勉三を案じた跡継ぎの八百とキクは、サヨ亡き後、密かにリクを帯広に呼びよせた。三十一年ぶりの再会であった。』(226P)とするのは「依田勉三物語」の下巻である。確かにリクは、大正13年11月10日に、病床の勉三と再会するのだが―
(文責:上野敏郎) |
−昔の十勝日日新聞から−
北海道開拓史研究会 松崎三聖人(土屋三余・依田佐二平・依田勉三)を顕彰する会
【依田勉三物語(下巻)】
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