開催日 令和4年3月18日(金)
話 題 私の「依田勉三研究」[その27]
−昔の十勝日日新聞から− |
昭和26年6月30日から三日間に渡って十勝日日新聞に掲載された三原武彦の寄稿文「回想の依田勉三」は次の文章で終わっている。 「勉三の功績をたたえて中島武市氏その他は昭和十六年五月、市の東北帯広神社の前に地を卜して農民姿の彼の銅像をたてたが、残念にも太平洋戦争の激化と共に応召し、今回のものはその再企画された雄姿である。(筆者は札幌市幌東中学校長)」
この文章の解説は、「十勝開拓の先駆者 依田勉三と晩成社」(井上寿著 加藤公夫編)265〜266ページにある全文をもって代えることにする。
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昭和十六年(1941) 依田勉三の銅像建設
帯広から岐阜高山に移った萩原実は「依田勉三と中島氏の偉業」というタイトルで、本を発行している。
時代は戦争中であり、海外への開拓などの精神高揚の事例として、よい材料を提供することになった。日中戦争(昭和12年から20年)が始まってから、依田勉三の名声がますます上がったのは、萩原実著書や中島武市らによる銅像建設によるものであった。
依田勉三の銅像は、足かけ四年の歳月と五万円の工費を投じて、昭和十六に完成した。敷地については、帯広駅前とか、十勝会館前庭という話もあったが、将来を考慮して敬神家、依田勉三にもゆかりのある、帯広神社社頭の約九百坪の土地に建設された。
銅像建設費は、北日本無尽会社から、日歩一銭五厘で五万円を融資してもらった。このため、中島武市は一日五十円を返済しなければならなかった。
五十円といえば、中年サラリーマンの月給ほどの金額だった。毎日、店の売上げから天引きすることは大変なことだった。商品の仕入れ、店員の給料、生活費をソロバンではじくと、そのやりくりには血の出るような苦しい思いだった。
工費から敷地改修費、除幕式費用、それに四年間の雑費を加えると、十一万円以上になった。この巨額の費用をものともせず、十勝開拓の先駆者の顕彰に心血を注いだのだった。
除幕式は昭和十六年六月二十二日、名士一千名を集め、文字通り盛大に挙行された。数多くの祝辞に、中島武市は感激の涙で顔を濡らしながら蓑笠姿の造像をいくたびも仰ぎ見た。この銅像、施設、敷地を、即刻、帯広市に寄付した。このため、市長、渡辺守治の命名で、依田勉三の銅像が建っている広場を「中島公園」と称することになった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三原武彦の「回想の依田勉三」は「〜、今回のものはその再企画された雄姿である。」で終わる。昭和16年の勉三の銅像は、昭和18年の国が出す金属応召」の命令で消えていく。勉三の銅像再建は昭和27年7月であった。
(文責:上野敏郎) |
−昔の十勝日日新聞から−
帯広神社前中島公園にある 依田勉三の銅像 (2008年1月撮影:帯広百年記念館提供)
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