上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1426回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年4月14日(木)
話 題 私の「依田勉三研究」[その30]
     −続:帯広の誕生日−

萩原実の提唱  
 昭和39年発行「十勝開拓史話」の著者萩原実氏は、「十勝原野開拓の先駆者」の最後に「追記」としてこう記している。  
 「勉三翁は、帯広の沃野を初めて発見して、ここを移住の地とした明治15年7月16日を記念し、この日を『晩成社記念祭日』とした。そして毎年この日を休業して地神を祭り、火酒を酌み、移民一同に粟餅を馳走した。(その餅のアンはミソアンであった)実に帯広発祥の日で、市の開村記念祭としてもまことに意義深く、日本一の開拓記念日であることを疑わぬ。先人の労苦を偲んで感恩の精神を新たにし、更に一段の発奮を誓う意味で、記念祭の復活を強く提唱する。」と。
勉三の日記には  
 明治15年4月から12月にかけて勉三は、鈴木銃太郎と二人で北海道に入っている。勉三は明治14年にも北海道に来ているが、二回目になる明治15年の目的は「開拓の地」を決めることにあった。  
 明治15年7月15日、勉三の日記にはこう記す。「東北に十勝川、東南に札内川、北に帯広川を帯び、札内山・音更山を見るの外四顧目にふるるものなし。細流は平原の中央にあり。水細くして冷やかなり。この地は田内氏の曾て開拓のため請願せし所なりといえり」と。  
 そして、その翌16日の日記には、「志刈別太は東北南の三方に山あり、亦沃鐃。音更川谷も同上の山あり。亦豊饒。然れども帯広村の肥沃にして開豁なるには如かずと思考せり」と。  
 勉三は、果てしなく広がる十勝平野、そこを流れる大小の川を見て「開拓の地」はここ以外にはないと決めたのである。日記の中に出てくる「田内氏」とは、北海道開拓使の御用掛つまり今で言えば北海道庁の役人である「田内捨六」氏のことであろう。  
 その田内氏は、明治15年9月から12月にかけて、内田瀞や藤田九三郎らと一緒に十勝地方や北見地方の調査に入っている。勉三と銃太郎が十勝に入った時と重なるのだ。
 その頃、北海道開拓が進む石狩や日高地方も蝗害に悩まされていた。その発生源が十勝にあるとして田内氏らは調査に入っていたのである。とにもかくにも、 
 その難問を抱える十勝・帯広を勉三は「開拓の地」に選んだのである。



−昔の十勝日日新聞から−



【十勝開拓史話】  著:萩原 実