最初の入地は5月7日
1883(明治16)年5月7日は、晩成社の最初の3人がオベリべリに入地した日だ。晩成社一行27人はその年の4月10日横浜港を出航、函館を経由して十勝オベリべリに向かった。函館からは陸路隊12人と海路隊15人に分かれて目的地を目指した。海路隊が乗った船は風走船「日光丸」といった。
そして、最も早くオベリベリに着いたのは、最初海路を選び、途中から陸路に変更した山田勘五郎とその息子広吉、そして12歳の山田喜平(最年少戸長)の3人であった。その日が明治16年5月7日。松崎を出てから実に53日の長旅であった。3人を迎えたのは、この日を今か今かと首を長くして待っていた鈴木銃太郎である。
銃太郎は、明治15年つまり前の年の6月1日に勉三と二人で北海道に向けて松崎を発ち、道内各地を調査しながら7月に十勝に入っている。そして運命の日7月15日、このオベリべリを開拓の地と決め勉三は国に戻り、銃太郎はこの地で一人越冬していたのであった。
※「帯広市史」や他の資料の多くは、5月7日に入地したのは進士五郎右衛門とその父文助、母チトとするが、鈴木銃太郎日記には山田勘五郎ら3人とある。
ここでは、実際にオベリベリで3人を迎え入れた銃太郎の日記を採用した。昭和50年発行「北海道十勝開拓史話」(萩原実著)も、5月7日は山田一行の入地(134P)とあることを付言しておく。 ● ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
● ●1972(昭和47)年、帯広市発行『帯広のあゆみ』から一つの詩を紹介したい。この年帯広市は、開基90年、市制施行40年であった。詩の作者は、当時帯広市立第一中学校2年の羽賀徳昌君です。
●今年は2022年、帯広市は開拓140年、市制施行90年です。
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勉三さん
勉三さん、
九十年の昔 この十勝の原野に
開拓のくわをおろした一人の男があった。
勉三さん、それがあなただ。
北海道という未開地に、夢を求めて
やってきた人、依田勉三。
ある時は、冷害になやまされ、
ある時は、バッタに畑をおそわれ
しかし、それでも自然とのたたかいを
あえてえらんで、 自分の信念を貫いた人、
帯広開拓の父 依田勉三。
《つづく》
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