上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1431回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年6月30日(木)
話 題 私の「依田勉三研究」[その35]
     −「電信通物語」が泣いている−

解せない「中城ふみ子賞」の休止?  
 明日、帯広市議会の6月定例会最終日と聞いています。この議会を見ていて残念なことが一つあります。それは、2004(平成16)年を第一回として始まった短歌の「中城ふみ子賞」が第十回目の今回で「休止」することが明らかになったことです。
 歌人中城ふみ子は帯広生まれの帯広育ちです。1922(大正11)年に帯広町西1条5丁目で生まれ、その後東1条6丁目に転居し、その後大学と結婚で一時帯広を離れますが、1954(昭和29)年8月に31歳という短い人生を閉じるのですが、その大半を「電信通り」で暮らしています。しかし、そこに「中城ふみ子」の足跡は何も残されていません。その地を詠んだ中城の歌は別として。
 「電信通り(晩成社通り)」は、帯広開拓の祖依田勉三率いる「晩成社」の畑があったところです。その晩成社が開拓に入ったのは1883(明治16)年、つまり、今年帯広市民は、140年目の道を歩くのです。140年の中で「電信通り(晩成社通り)」が果たしてきた役割は大きなものがあります。思いっきり言葉を変えて言えば、「依田勉三がいて、中城ふみ子がいた」のです。その電信物語の種に水をやり、育てること、なぜ「140年のタイミング」やめるのでしょうか。
 僭越ながら、繰り返し申し上げます。開拓140年は晩成社から始まる訳です。現在の電信通りは、その晩成社と大きく関わる区域であり、「電信通り」と呼ばれる前は、「晩成社通り」と呼んだと記録に残っています。その「晩成社通り」に中城(野江)ふみ子は、生まれ、育ち、全国的に高い評価を得る歌人として今日にあります。また、電信通りに関わる歌も残しています。 誠に生意気ながら、更に申しあげます。
 「先人の労苦に報いる」とは、よく耳にする言葉ですが、先人は、依田勉三翁だけを言うのではありません。この140年、この地に関わってきた人々を表すと思うのです。その中にあって、中城ふみ子の生き方と功績は高く評価されてしかるべきです。
 言うまでもなく、「中城ふみ子賞」の休止は「市政」に深くかかわる事案です。「開拓140年」だからこそ、今の電信通りに「依田勉三」と「中城ふみ子」の生き様の痕跡を残すべきだと思うのです。
文責:上野 敏郎


 


−昔の十勝日日新聞から−


明治16年、開拓に入った
頃の依田勉三(似顔絵)


昭和10年頃の中条ふみ子(似顔絵)