上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1432回普段着のとかちミーティング


開催日 令和4年7月15日(金)
話 題 私の「依田勉三研究」[その36]
     −この土地がいいねと翁(勉三)が言ったから
       七月十六日は開拓記念日 −

 明日は七月十六日。今から140年前、明治15年7月16日のことです。後に、帯広開拓の祖と呼ばれる依田勉三と同志鈴木銃太郎はこの帯広にいました。勉三にとって十勝国は、一年前に続いて二度目のことですが、その時は帯広(オベリベリ)がある内陸には足を踏み入れていません。  
 「依田勉三は函館から胆振国を廻り、室蘭から再び函館にもどり、次に根室に直航し釧路・十勝・日高の各国の沿岸をめぐって苫小牧から札幌に入り、小樽から船で函館に寄り帰途についた。十勝国には10月1日に十勝太(トカチプト)、2日には大津、3日歴舟にそれぞれ1泊しているが、内陸には足を入れることはなかった。」(井上寿「明治16年の晩成社移民団史」より)  
 その依田勉三が、鈴木銃太郎を同行させ「15年間で一万町歩の開墾」を夢見て再び北海道の調査に入ったのが明治15年です。勉三らは、その年の4月29日、静岡県伊豆の大沢村を出発します。5月9日、静岡県庁に出向き北海道開拓の願書を提出、その足で横浜に向かい6月1日、横浜港から「九重丸」に乗船、同月3日に函館港には入港、11日には、函館港から小樽港に向かい、13日には札幌県庁に出向いています。用件は、北海道開拓の情報収集とその手続きのためです。
 札幌県庁の役人は、札幌の近く苗穂を開拓地としてはどうかと進めます。しかし、勉三はその話に首を縦には振らなかったのです。勉三の目的はあくまでも「一万町歩の開墾」なのです。それでも、札幌県庁の佐藤大書記官は「晩成社の力では無理」と進言しますが、勉三は、「ただひたすら願意の通達せられん事」を優先させたのでした。  
 そこで、場所を特定しない「開墾願い」だけを提出した勉三らは、その土地を決めるために日高国と十勝国の調査に入ることにします。  
 明治15年7月10日、勉三らは十勝の大津川(十勝川)を丸木舟で上流に向かいます。オサウシ(長牛)、チヤシコツ(安骨)、ウシシュベツ(牛首別)、トシベツ(利別)、ヤムワッカ(止若平)、イカンベツ(咾別)、サツナイブト(札内太)とさかのぼり、オベリベリ(下帯広)に着いたのは明治15年7月15日でした。  
 勉三らは、先住者である国分久吉、馬塲猪之吉、大川宇八郎らからの聞き取り、案内で現地調査をし、7月16日、この地オベリべリ(下帯広)を晩成社の開墾予定地と決めたのでした。その大きな理由は、このオベリベリが比較的樹木が少なく、しかも平地の多いことが決め手でした。「一万町歩の開墾」の願いに叶う場所であったということです。  
 この日(16日)、勉三ら国分久吉の家に宿泊しています。そこには国分の奥さんや子どもたち、そして親戚の人々がいっしょに暮らす姿がありました。勉三は、その様子に自らの開拓生活を重ねたのかも知れません。


この土地がいいねと翁(勉三)が言ったから七月十六日は開拓記念日
文責:上野 敏郎


 


−昔の十勝日日新聞から−


依田勉三(似顔絵)


鈴木銃太郎(似顔絵)