上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1434回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和4年8月1日(月) 話 題 私の「依田勉三研究」[その37] −偉大成るかな、二人の翁− |
原野にクワを入れた男・依田勉三 今から140年前、明治16年のことである。今の帯広は太陽の光が地に届かないほど鬱蒼とした原野であった。当時の明治政府は、この未開の地十勝国を北海道の中でも最も開拓の難しい場所と見ていたのであった。 その原野に、たった27人の手勢で挑んだ開拓団があった。伊豆は松崎で立ち上げた「晩成社」である。優れた3人のリーダーがいた。その中でも陣頭指揮を執るのは依田勉三。30歳であった。 その晩成社は、15年間の開拓計画を持っていた。それは、地面が見えない程の広大な原野を切り拓き、一万町歩の農地や牧場を確保することであった。 一万町歩は約10000ヘクタール。その広さを、円で表すと半径5.7キロメートルになる。それを今の帯広の地図に落とすとJR帯広駅から大空団地の入り口までが半径。それで円を描いてみる。北は木野市街、東は札内市街のはずれまで届く。これが一万町歩の広さである。坪で言えば3000万坪だ。 役所の応援はほとんどない。開拓団の乱れも早々に目立つようになる。そんなこんなの悪戦苦闘の連日である。当然、夢叶うことは無かった。 晩成社が開墾したのは、10年間で30町歩と記録にはある。それも、数カ所の開拓地にまたがる。その開墾地も、「晩成社には何も残っておらん。し、しかし、十勝野には・・・」の有名な勉三の言葉にあるように借金払いに消えている。そんな中、大正14年12月12日、勉三は帯広町西2条10丁目4番地の自宅で73歳の終焉を迎えたのであった。 夢破れて山河あり、ともいう。依田勉三の夢は、それでも今の十勝につながっている。これは間違い無い。よって、勉三翁の功績は偉大であると評価されなくてはならない。 “近代化”にメスを入れた男・吉村博 その山河を引き継ぎ、その後帯広には幾人かのリーダーが誕生している。中でも、第五代𠮷村博帯広市長は依田勉三に次ぐ「発信力のあるリーダー」であると思うのである。勉三が、十勝の原野にクワを入れた男ならば、吉村博は「急ぎ過ぎる近代化」にメスを入れた男と言えるのではないか。 その吉村を語るに余計な私語は要らない。“帯広の森”の中に静かにある吉村博の胸像、その碑文を読むだけで十分だ。そこにはこうある。 『従五位勲四等旭日小綬章𠮷村博氏は 明治44年4月1日中川郡池田町に生を享けた 昭和38年8月 44歳の若さで推されて五代目帯広市長になり 五期19年間行政に敏腕をふるい郷土の発展の為献身的に活躍するも 昭和58年4月14日逝去 市民等しく「巨星墜つ」の感を深くしたところである 此の間 帯広市街を400ヘクタールのグリーンベルトで囲もうとする雄大な帯広の森の創設 緑の工業団地 動物園 野草園など農村の景観と調和した「近代的田園都市帯広」を創造し「水と空気と緑 子供とお年寄りを大切にする」ことを基調に アイディアと計画性のある都市づくりは全国的にも脚光をあび高く評価された 常に心魂を砕いてヒューマンとロマンの理想を求め 終生人をこよなく愛し その情を大切にする不世出の逸材であった また「文は人なり」と言われますが 𠮷村博氏は自然や人間愛の数々を俳句にとどめるなど文人としての一面もかねあわせ その卓越した識見 豊富な体験 公平な行政は市民等しく讃仰するところです ここに𠮷村博氏の高潔なる人格と徳望を敬愛するもの相つどい その功績ご意志を偲びこの地に建立する』 昭和63年5月28日 𠮷村博追悼の碑をつくる会 会長 川上直平 今を生きる私たちは、この二人の翁の像にある碑文を、単なる思い出話にしてはいけない、この先人の功績にどう報いればいいのだろうか、そう思うのである。 |
文責:上野 敏郎 |