上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1442回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和5年1月20日(金) 話 題 「帯広地方の子守唄」を考察する [7] −「赤い山青い山白い山」の謎− |
「赤い山青い山白い山」の本籍地 その5 すでに6回に渡って、帯広地方に伝わる子守唄「赤い山青い山白い山」のルーツを調べてきた。紹介した資料からも分かるように、「赤い山青い山白い山」のふる里は、限りなく北陸地方にあり、その中でも、現在の福井県勝山市の北谷地区の「北地域」にあると考えることができるのではなかろうか。 その仮説に立ち、帯広と北陸地方の関係を調べてみたい。ここでは帯広市史等をひもとき、北陸地方から帯広地域に入植した開拓の歴史を振り返えることにする。 明治28、29年に北陸地方の何本かの川は荒れ狂っていたのである。多くの農民は生活の糧である美田を一夜にして失い、家も流されその一帯は見る影もなかったのだ。福井県も例題では無かった。足羽川の氾濫で大事な桑畑、水田は流され周辺の農民は絶望の淵にあったのである。 どん底の中で農民たちの中には、北海道への移住を考える者も出始めた。昭和51年発行「越前開拓八十年記念誌」によれば、その中で、いち早く移住の決断し実行に移す団体、それが小森清太夫を団長とする「越前団体」であった。 この団体は、小森の出身地福井県大野郡下味村をはじめとして五つの村の農民で構成されていた。下味村のほかには、上庄村、遅習村、北谷村、平泉寺村の四つだとする。村別の人数は明記されていないが、「42戸の賛同者で越前団体を構成」と説明されている。 ここではっきり分かるように、のちの「赤い山青い山白い山」の子守唄につながる「北谷の子守うた」を、日常的に歌っていた北谷村の人々がこの「越前団体」に参加していたのである。この先人たちが、この十勝の大地に踏ん張りながら、わが子を腕に抱きながらふるさとの子守唄「北谷の子守うた」を歌ったことは確信をもって言えることではないだろうか。 しかし、NHKのCDで確認する「北谷の子守うた」の旋律は、帯広地方に伝わる子守唄「赤い山青い山白い山」と違っていた。しかし、詞は同じであった。 |
文責:上野 敏郎 |