上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1448回普段着のとかちミーティング


開催日 令和5年8月7日(月)
話 題 十勝野に人あり 人に歴史あり
     −そのふる里は[1]
 これまで12回に渡って『「帯広地方の子守唄を考察する=赤い山青い山白い山」の謎』を掲載してきた。私は、この子守唄は明治30年ごろ当時の幸震村に入った福井県人が最初にこの十勝の大地で歌ったと考えている。そこで、とかち史談か会顧問である嶺野侑さんに「十勝の開拓と福井県人」と題して原稿を寄せていただくことをお願いした。ぜひ、ご一読をお願いしたい。
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 特別寄稿
【 十勝の夜明けと福井県】―その足跡をたどる―[1]

                  とかち史談会 顧問 嶺野 侑

 北陸地方と北海道の関係は、江戸時代以前にさかのぼるから相当古い。多くは北陸から漁業の出稼ぎにくる人たちで、交易も盛んになった。なぜ北陸の人たちが蝦夷地といわれた北海道に目を付けたのか、それは仏教の教えで間引きという産児制限を禁じたため、子沢山となり新天地を求めざるを得なかったと説く宗教人もいる。しかし、十勝との関りは明治維新後、20数年を経てからだった。十勝の開拓に尽くした福井県人の主な先覚者を調べてみた。

帯広畜産大学に顕彰碑
売買原野の先覚者  中村善右衛門
 

 善右衛門は1862(文久2)年、福井県平泉村で生まれた。先祖代々善右衛門を襲名していたが、74(明治7)年、父とともに渡道、札幌の駅前通りで瀬戸物屋を始め、繁盛していたのに84(明治17)年、十勝の河口、大津で転住、衣料、金物、食料品の店を開き、一日の売上金は箕(み)で1杯、2杯と数える程で利益を上げたと伝えられる。商売相手は、十勝平野に散居していた鹿を撃つ猟師だった。  
 やがて内陸の下帯広に大きな監獄が建設されるという情報を耳にし、92(明治25)年、売買(現帯広市稲田)に入植、原野を開墾し、売買の初代総代人に選ばれた。善右衛門は近い将来、監獄の南方面に大きな市街地が形成されると信じたが、不幸にして予見は外れた。帯広の都市計画は監獄の北方面に策定されたからだ。  
 しかし、善右衛門は、小作人を入れて190町歩の原野を切り開き、公有地として提供した。この土地は二級町村大正村から分村した川西村に継承され、村有牧場に活用された。  
 時は移り1933(昭和8)年、帯広市西4条南23丁目にあった十勝農学校(現帯広農業高校)が火災で焼失、北海道庁長官佐上信一は、自ら移住候補地を見て歩き、善右衛門の残した村有牧場への移転を決め、日本一のキャンパスを誇る学校が完成した。  
 そして急速に浮上した帯広畜産大学の前身、帯広高等獣医学校の誘致運動。用地の無償提供など地元負担は大きかったが、幸い敷地は十勝農学校の西半分、80町歩を譲り受けることで開学のメドがついた。
 善右衛門の夢は、文教地帯となって実現し、畜産大学正面に顕彰碑が建立された。歳月の流れとともに善右衛門の功績は光り輝く。

(つづく)
 


 




中村 善右衛門 氏
(似顔絵:菅野 隆雄氏)