上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1449回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和5年8月9日(月) 話 題 十勝野に人あり 人に歴史あり −そのふる里は−[2] |
特別寄稿 【 十勝の夜明けと福井県】―その足跡をたどる―[2]
愛の国から幸福へ
越前団体の入植地、幸福に観光ブーム とかち史談会 顧問 嶺野 侑 福井県九頭竜川の大水害が発生したのは、1897(明治30)年のことだった。住む家屋、土地を流された同県大野郡の農家42戸は、北海道十勝への移住を決め、越前団体(団体長小森清太夫)を結成した。生活が切羽詰まっていたため、追い立てられるように、入植地選定の手続きをしないまま、十勝の河口大津から移民が下帯広村にやっていた。 一行は晩成社農場にワラジを脱ぎ、一時小作や日雇いになって働き、小森団長は入植地探しに奔走、二転三転し、ようやく幸震の札内原野48万坪の貸し付けを受けた。この土地は、渋沢栄一が十勝開墾合資会社を設立し、人舞(現十勝清水町)の熊牛原野と一緒に貸し付けを受けたものの、両方の開拓は無理となり、未開のまま国に返上したものだった。 入植地が決まり開拓を始めたが、脱落者が増え、団体は崩壊の危機に陥った。このため13戸で立て直し、後に地名を幸震村の幸と福井県の福を結んで『幸福』と名付け、ようやく開拓は軌道に乗った。幸震村は大正時代に入ると二級町村大正村となり、戦後、1947(昭和22)年、帯広市と合併した。 時は流れ、1973(昭和48)年、NHKの番組『新日本紀行』で旧国鉄広尾線を舞台に、幸福への旅が放映され『愛の国(愛国)から幸福へ』は全国的なブームを呼んだ。広尾線廃線後も幸福ブームは続き、幸福は帯広の観光地になり、JR帯広駅にも、幸福駅をモチーフにした観光案内所がある。 (つづく) |