上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1450回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和5年8月25日(金) 話 題 十勝野に人あり 人に歴史あり −そのふる里は−[3] |
特別寄稿 【 十勝の夜明けと福井県】―その足跡をたどる―[3]
日本資本主義の父渋沢栄一の初代農場長町村金弥の華麗な系譜
別名北海道の殿様 とかち史談会 顧問 嶺野 侑 来年から新しい一万円札の顔に登場する近代日本経済の父渋沢栄一が設立した十勝開墾合資会社、その農場は人舞村(現十勝清水町)の熊牛にあった。初代の農場長町村金弥は、福井県出身で札幌農学校卒。同期に内村鑑三がいた。北海道開拓使がアメリカから招いたエドウイン・ダンの下で、道立畜産試験場の基礎を築いてから、1898(明治30)年、熊牛にやってきた。 町村が福井県人であったことから小作人の第一陣26戸は福井県から入植、次第に開拓民は増えてきた。この農場の小作人に対する条件は比較的よかった。原野を開墾し、道庁の開拓検査に合格すると、3分の1が小作人の土地となる有利な条件は、他の農場にはなかったといわれる。しかし、開拓は困難を極め小作人の夜逃げや離農が相次いだ。開拓が成功したのは10年後、吉田嘉市が第3代農場長として着任してからだった。 町村は農場を去ってから福井県令を務め、長男敬貴は北海道江別に町村牧場を開設。優良な種牛を育成して道内各地に供給、酪農民に親しまれた。戦前、貴族院議員に選任、戦後も酪農の先覚者として活躍した。 次男金五は東大を卒業して内務省に入り、富山県知事、内務省警保局長、警視総監を歴任、戦後、公職追放を受けたが、追放解除後、北海道一区から衆院選に出馬して当選、2期務めた後、北海道知事選に当選、3期12年間、戦後道政の安定と総合開発に力を尽くした。知事退任後、参院議員となり国政に返り咲き、自治大臣、国家公安委員長を務めた。金五の長男信孝は、父の基盤を受け継ぎ衆院議員に当選。外務大臣から衆院議長に上り詰めた。この一族の出身地は福井県、北海道の殿様といわれた時代があった。(つづく) |