上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1451回普段着のとかちミーティング


開催日 令和5年8月28日(月)
話 題 十勝野に人あり 人に歴史あり
     −そのふる里は−[4]
 特別寄稿
【 十勝の夜明けと福井県】―その足跡をたどる―[4]

 十勝稲作の先駆者

  増田立吉と青山奥左衛門は福井県人
                  とかち史談会 顧問 嶺野 侑

 十勝は畑作畜産王国とはいえ、開拓時代から主食の米を作って食べたいという願望が強かった。先駆者は音更町下士幌の増田立吉、池田町青山の青山奥左衛門である。  
 増田は1865(慶応元)年、福井県で生まれ、25歳の時に渡道、道南の上磯、札幌を経て1893(明治26)年、十勝川の合流点下士幌に入植、水田20アールを試作して収穫にこぎつけた。さっそく栽培面積を広げ、米作を本格化し、多くの農家に普及するようになった。下士幌に『十勝の水田発祥の地』の標柱がある。  
 青山も福井県出身。1896(明治29)年、福井の開拓者30人とともに現在の池田町青山に入植した。私設の農事試験場を設け、稲作試験を続けながら、みそ、しょうゆの醸造を始め、名付けた『越前開拓味噌』は各方面から好評で、小売店でも売られるようになった。  
 入植3年後、やっと実った米は、江別から種子を取り寄せた。『ニオイワセ』だった。稲作は利別、千代田一帯に広がり、利別川流域に米作地帯を形成、この水田用水を確保するため、十勝川に千代田えん堤が築造された。しかし、青山は再び開拓魂に燃え、釧路鶴居の開拓に乗り出し、さらに日本統治時代の樺太(現サハリン)に渡り、国境近い北敷香で開拓に挫折、太平洋戦争中、釧路に帰り失意のうちに他界した。  
 失敗したとはいえ、奥左衛門が開発した樺太大豆は道内にも普及し、青山は池田の地名となって歴史に残る。  

 このほか十勝管内には、本別、浦幌両町など広い範囲に福井県人が入植した。農業ばかりでなく商人として十勝に入り、成功した人も多いが、開拓同様、失敗して他郷に移った人も見落とせない。帯広市には戦前から北陸銀行が支店を進出していたが、それは開拓の初め、北陸出身者が多かったからである。(終)
 


 


増田 立吉 氏 青山 奥左エ門 氏