上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1452回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和5年11月8日(水) 話 題 十勝野に人あり 人に歴史あり −そのふる里は−[5] |
特別寄稿 【 十勝の夜明けと徳島県】―その足跡をたどる―[1] 徳島市と帯広市の姉妹都市締結は、今年4月、世を去った田本憲吾さんの市長時代のことだった。市議会でその意義について質問があった時、『縁は異なもの―』と、議員を煙にまいたことを思い出す。姉妹都市になって50年近い歳月が流れた。両市の絆は強くなるばかり。徳島から十勝に移住した人たちも、3世4世の時代に入り各方面で活躍している。ここに歴史に残る人の軌跡を紹介したい。
どん底から十勝経済界の重鎮へ 十勝の開拓に成功し、帯広市経済界の重鎮になった上徳善七は、どん底の生活から這い上がった立志伝中の人だった。 善七は明治9年、徳島県美馬郡貞光村で生まれた。生家は貧しく、14歳の春、県下で屈指の藍を売る商店に丁稚小僧として住み込んだ。しかし、苦労のかいなく、藍は外国製品の進出に押され、商店の経営は傾いた。このため前途を切り開こうと、北海道開拓を志し、明治26年、徳島から十勝への移住団体に加わり、十勝 の川合村(現池田町)大森に入植した。 移民団一行は、総勢36人。さっそく掘っ立て小屋をつくり、開墾を始めたが、気象条件と干古の原野は想像以上に厳しく、開墾初年で蒔き付けた作物は全滅してしまった。自然の猛威を恐れた開拓者は、善七と妻帯者3戸を除き徳島に帰郷してしまったという、独身の善七はこれにひるまず踏みとどまり、いったん利別太の先覚者三浦等六が経営する旅館に身を寄せた。等六は農業のほか、旅館、舟運、渡船など幅広い事業に取り組んでいた。善七は、ここで開拓と商売のコツを学んだのである。客が満室で布団がない時は、ムロに入り菰(こも)を被って寝ていたという。 修業を積んで大森に向かった善七は、徳島から両親を呼び寄せ、開墾と商売を両立させた。土地を買って売る。地価は必ずといってよい程値上がりしたので、たちまち財を成した。農場は池田から音更、本別、幕別に約6000町歩、さらに山林1,500町歩を所有する大地主となった。大正10年、上徳一家は発展を続ける帯広町に移転。町民の台所をまかなう帯広魚菜卸売り市場を設立。社長に就任、帯広の市制施行後は、帯広信用金庫の前身帯広信用組合など数々の企業経営に携わった。 善七の長男善司は、帯広中学、立教大学経済学部を卒業して、家業を受け継いだ。帯中時代はテニス部の主将を務め、東北海道大会で優勝するなど活躍。大学在学中の昭和14年、自動車の運転免許を取り、太平洋戦争の敗戦後、いち早くモータリゼーションの時代が来ると予見、帯広市内では一番早い立体駐車場を建設した。 白鳥事件で知られる札幌市警察警備課長だった白鳥一雄は帯中時代の同期生。白鳥が銃弾に倒れてから同期会を開き法要をしたことでも知られる。テニスはライフワークで、市民コートを設立。愛好家に喜ばれた。善司の長男善也は、医師で帯広上徳整形外科病院長。その長女ひろみは、同病院乳腺外科長である。 |