上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1453回普段着のとかちミーティング


開催日 令和5年11月9日(木)
話 題 
十勝野に人あり 人に歴史あり
     −そのふる里は−[6]
 特別寄稿
【 十勝の夜明けと徳島県】―その足跡をたどる―[2]

医師 寛斉 
73歳で北辺の地斗満開拓

                  とかち史談会 顧問 嶺野 侑

 徳島と十勝の関連で、真っ先にあげられるのは、陸別町斗満原野に入植した医師関寛斉であろう。明治35年73歳で北海道開拓を志し、30年におよぶ地位・名誉を投げ捨て、北辺の地斗満の開拓に命を懸けた。その苛烈な生きざまは、永遠に歴史に残る。
 寛斉は現在の千葉県東金市出身、佐倉順天堂で医学を学び、長崎でオランダ人の軍医ポンペーに師事、蜂須賀藩の藩医となった。明治維新後の戊辰戦争では、新政府軍の野戦院頭取に任命され、敵、味方の区別なく負傷兵の治療に当たった。
 本来なら栄達の道があったはずだが、徳島の全財産を処分、約10万円(現在の金にして数億円)を持って、明治35年斗満原野に入植したのである。寛斉はこれに先立ち、4男又一を札幌農学校に入学させていた。又一の卒業論文は「十勝国牧場設計」という百ページからなる開拓計画。又一は十勝監獄の初代典獄黒木鯤太郎の長女美都子と結婚、アメリカ方式の大規模な機械化農業を展開しようと意気込んでいた。  
 当初は牛馬の管理が不慣れの上に大雪で飼料が不足し40頭の馬が死んだ。それでも開拓2年目には、馬99頭、牛10頭、畑4町歩、牧草地20町歩を切り開き、駅逓を開業した。関の家には病人やタコ部屋の過酷な労働から逃げ込んで 来た者も多くいたが、寛斉は無料で医療活動を行なった。そして十勝、網走両監獄の出獄人を農場に受入れ、社会復帰に努めた。  
 寛斉は文豪徳富蘆花と親交があった。その蘆花は十勝の池田と北見を結ぶ国鉄網走線が開通した直後の明治43年、妻と女児を連れて寛斉のもとを訪れた。斗満の自然を満喫し、7日間滞在し帰途についたが、蘆花は礼状に詩を添えて寛斉に送った。  

 君に別れ 十勝の国の国境(くにざかい) 
 今越ゆるとて振り返りし見ゆ 
 返り見ればとかちは雲になりにけり 
 心に響く斗満の川音 
 雲か山か夕霧遠く隔てしに 
 翁が上を神護りませ  

 寛斉は凍てつくような冬の朝でも斗満川の水を割り、水を汲み上げ頭から何杯も水をかぶった。冷水浴は最大の健康法だったが、明治45年10月15日、1人静かに自殺。83歳の生涯を閉じた。財産分配を求める民事訴訟を起こされ、人間の欲にからむ争いに絶望したのではないかと言われている。
 


 


関 寛斉 氏