上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1454回普段着のとかちミーティング


開催日 令和5年11月10日(金)
話 題 
十勝野に人あり 人に歴史あり
     −そのふる里は−[7]
 特別寄稿
【 十勝の夜明けと徳島県】―その足跡をたどる―[3]

南海社 社長国安仁七郎 
十勝に初めて入植した徳島県人

                  とかち史談会 顧問 嶺野 侑

 十勝に初めて入植した徳島県人は、徳島県会議員国安仁七郎が結成した南海社の開拓民だった。国安は徳島県会開設と同時に県会議員に当選、県民の生活安定に力を尽くした。しかし、徳島は土地が狭く明治20年ころの失業者は、数万人に及んだという。そこで北辺の地に活路を見い出そうと、貧困者補助金の一部を北海道移住奨励に向けるよう建議したが、県外の事業に使用することはできないと却下された。このため自力で身をもって当たらんとし、結成したのが南海社だった。
 國安は自ら社長となり、単身、北海道に移住し土地選定を行ない、現在の幕別町咾別(いかんべつ・現在の相川)を入植地に決めた。明治25年4月、開拓国の矛一陣14戸、約200人は、徳島県小松島を船で出発、1か月後釧路に上陸海岸を歩いて十勝川の河口大津にたどり着いた。大津から目的地の咾別着いた一行は、さっそく開拓小屋を建て、原野を切り開き農作物を栽培した。無願開墾だったという。先住者はいなく、鹿やキツネは多かったが、熊はまったく見たこともなかった。
 十勝の各地の開拓は、想像を超える苦難が続いたが、現在の相川は十勝川の肥沢な沖積土地帯で作物は比較的順調に育ち、開墾は進んだ。国安の土地選定に間違いはなかったのである。第一陣に続き明治26年24戸、明治27年54戸がそれぞれ入植、相川は十勝で最も豊かな農村地帯を形成した。国安はいかなる考えがあったのか、明治31年、本別に移住。大正10年、80歳で没した。
 


 


国安 仁七郎 氏