上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1456回普段着のとかちミーティング


開催日 令和5年11月14日(火)
話 題 十勝野に人あり 人に歴史あり
     −そのふる里は−[9]
 特別寄稿
【 十勝の夜明けと岐阜県】―その足跡をたどる―[1]

岐阜県人の入植第一号
坂内村移住団

                  とかち史談会 顧問 嶺野 侑

 岐阜県からトップに十勝に入植したのは、坂内村の移住団だった。同村は山間の辺地、中村仁太夫の長男常次は、本道に新天地を求め、立った一頭の牛を売って旅費を工面し、1895(明治22)年、福井の敦賀港から小樽に着いた。開通したばかりの鉄道で岩見沢に向かい、同県人が入植していた栗沢の『必生社農場』を訪ねた。  
 ここで日高山脈の彼方には、十勝という広漠とした未開の地があると聞き、さっそく坂内村に引き返し、役場に相談した。ただちに移民募集に着手、翌年3月、常次と役場吏員2人がオベリベリに着いた。  
 3人は伏古別原野を適地とし、道庁植民課十勝出張所に84万坪の払い下げを出願、坂内村に戻った。移民団は藤井九助を団長に選び、水杯を交わし、大垣から四日市に向かったが、途中、流言飛語が飛び交い、脱落者が出て、第一陣移民は31戸、132人になった。
 一行は四日市を船で出発、函館から釧路に上陸、海岸線を歩いて十勝川の河口大津を経てようやくオベリベリの晩成社農場でわらじを脱ぎ伏古中島に入った。しかし、予定地は開拓に適しない湿地帯であることが分かり、あわててオベリ周辺を探査、札内川流域に近いウリカリ原野(現稲田)に変更手続きをして入植した。
 藤井団長は、開拓請負人のような人で開墾地を売り、芽室、屈足と転々とし、最終的に落ち着いた鹿追で駅逓を開業した。リーダーになった中村常次は、開拓民を励まし、よく面倒を見た。イナキビが収穫できるようになってから自給自足の生活ができるようになって、十勝監獄に換金作物を売れたことなどから次第に農家経営は安定、大きな農村集落が形成された。
 1995‘(平成7)年、常次の子孫昭夫宅前に坂内村から渡道100年記念の石碑が贈られた。
 


 


中村 常次 氏 藤井 九助 氏