上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1458回普段着のとかちミーティング


開催日 令和5年11月16日(木)
話 題 
十勝野に人あり 人に歴史あり
     −そのふる里は−[11]
 特別寄稿
【 十勝の夜明けと岐阜県】―その足跡をたどる―[3]

音更町木野を切り拓いた
木野村甚太郎

                  とかち史談会 顧問 嶺野 侑

 1862(文久2)年、岐阜県本巣郡生津村生まれ。1896(明治29)年の大洪水で地域は甚大な被害を受けた。同郷の道庁殖民課十勝出張所長鷲見邦司の熱心な勧めが動機となり、同年渡道。現音更町下音更の音更川両岸にまたがる原野164町歩の貸付けを受け、農場を開設。最初の小作人20戸が入植して開墾を始めた。  
 大資本の農場とは異なり、開拓は困難を極めたが何よりも十勝川を境いに隣り帯広という地の利と、音更川流域は肥沃な沖積土地帯であった。小作人は増え開拓は進み、地域は木野村甚太郎にちなみ、そのまま木野村と名付けられた。小作争議が起きたこともあったが、農場は太平洋戦争敗戦後まで続き、戦後は都市化が進んだ。隣りの千野村とともに発展は著しい。甚太郎の子孫は、木野地域の開発や弁護士などとして大いに活躍している。
 


 


木野村 甚太郎 氏