上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1462回普段着のとかちミーティング


開催日 令和5年11月22日(水)
話 題 十勝野に人あり 人に歴史あり
     −そのふる里は−[15]
 特別寄稿
【 十勝の夜明けと岐阜県】―その足跡をたどる―[7]

岐阜県人を代表す経済界の大物
中島武市
依田勉三の銅像建立

                  とかち史談会 顧問 嶺野 侑

 道庁殖民課の初代十勝出張所長鷲見邦司が岐阜県人であった影響か、十勝への岐阜県人の移住は明治末年まで続いた。農業ばかりでなく商業を営む人たちも多かったが、その代表的な人物は、昭和に入り、経済界や政界で活躍した中島武市であろう。  
 武市は、1896(明治29)年、岐阜県本巣郡土貴村早野出身、地元の小学校を卒業後、商家の丁稚小僧などをしていたが、北海道十勝の帯広が有望な地であると伝え聞き、帯広に移住した。小さな衣料品店を開店し、独特の才覚と努力で店を大きくした。気を見るに敏で、開拓の祖、依田勉三が世を去って10年後の1941(昭和16)年、私財を投入し、帯広神社前に勉三の銅像を建立した。  
 銅像の題字は、三田同門のゆかりから、憲政の神様尾崎行雄が引き受けた。開拓者の銅像は類例にないものであっただけに、新興帯広の一大名物となった。  
 しかし、太平洋戦争の『金属応召』で姿を消した。戦後、武市は銅像再建を思い立ち、自らの名を冠し名付けられた『中島公園』に多くの協力者を得て銅像を再建、除幕式が行われたのは、1950(昭和26)年7月1日である。武市は帯広商工会議所会頭に就任、帯広市議会議長を一期務め、国鉄自動車全国協力会連合会長などの役職で活躍した。シンガーソングライター中島みゆきは孫娘である。
 


 


中島 武市

依田勉三 銅像