上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1463回普段着のとかちミーティング


開催日 令和5年11月24日(金)
話 題 十勝野に人あり 人に歴史あり
     −そのふる里は−[16]
 特別寄稿
【富山県と十勝】―その縁(えにし)―[1]

アイヌの生活指導者 宮崎濁卑
富山県人を呼び寄せる

                  とかち史談会 顧問 嶺野 侑

 西帯広開墾の先駆者で、アイヌ勧農指導者で知られる宮崎濁卑は、1848(嘉永元)年、富山県西砺波郡小伊勢村(現福岡町)で生まれた。1883(明治6)年、札幌県が伏古村に開設した土人開墾事務所のアイヌ勧農指導者として着任、伏古別、音更、札内、途別のアイヌを集めて指導した。  
 開墾事務所の仕事が一段落すると官を辞し、伏古村に住み着き、郷里の富山県から『十勝はよいところで、とりわけ伏古は希望のある土地』と、熱心に移住を進めた。これに応え、尾山久兵衛、田守弥三、高田恒次郎が1891(明治24)から開拓民を引き連れて入植、2年後には52戸が開墾の鍬を振った。  
 濁卑は伏古村に最初から水田づくりを目指して計画を立て、水田と並行して畑作にも力を入れた。越中衆と呼ばれた人たちの開拓はほとんどが成功して篤農家になった人が多い。濁卑は伏古村総代人、村会議員などを歴任、村の有志津田禎次郎らと伏古水田土地組合を設立、その一生をアイヌの勧農指導、生活指導、同郷移住者への物心両面の援助にささげた。  
 戦後、伏古は西帯広地帯といわれ都市化が進んだ。工業団地、帯広の森などが造成されたが、多くの越中家の子孫は地元で健在。多方面で活躍している。
 


 


宮崎 濁卑