上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1464回普段着のとかちミーティング


開催日 令和5年11月27日(月)
話 題 十勝野に人あり 人に歴史あり
     −そのふる里は−[17]
 特別寄稿
【富山県と十勝】―その縁(えにし)―[2]

藤丸デパートの創業者 藤本長蔵
122年の歴史を閉じた藤丸

                  とかち史談会 顧問 嶺野 侑

 藤丸デパートの創業者藤本長蔵は、1993(明治6)年、越中国富山県砺波(となみ)郡本保村で生まれた。長じて1000円ばかりの米・荒物・太物類を仕入れて渡道、後志國久遠郡久遠村に着いた。ニシンの好漁で商品は難なく売れ、その金でニシンを買い富山に帰って売った。益金でそれまでの借金を返すことができたという。  
 長蔵は北海道で十勝が有望な地帯と聞き、1897(明治30)年、商品を仕入れ、函館から大津を経て下帯広村に着いた。しかし、大津から川舟で運ぼうとした商品は、川舟が咾別(いかんべつ)川の浅瀬に乗り上げて転覆、積荷の一切を流してしまった。  
 茫然とした長蔵は、気を取り直し下帯広村の商況を観察した。すべてがこれからという活気に満ちた土地である。長蔵は郷里の人たちの助力を得て太物類を取り寄せ、大通6の借家で衣料品店を開業した。移住者が増え続けたため、衣類は飛ぶように売れた。翌年、富山から新妻ツラを迎え、4年後、大通5の土地一戸分を買い取り、店舗を移転新築した。  
 商売は順調に発展、富山から兄孫右衛門を呼んで、売買原野(現富士町)に農場を開設、自らは十勝製材、北海印刷、共立病院など多角経営に乗り出し、帯広商工会議所の前身、帯広実業協会会長を務めた。公職は下帯広村初代総代人、帯広町議に当選したが、胃腸を病んでから一切辞し、社業の傍ら義太夫と句作を楽しんだ。  
 昭和に入り長蔵はヨーロッパを視察、帰国してデパートの建設を計画し、1930(昭和5)年、西2南8に道東初のデパートを開いた。帯広は3年後、市制を施行したが、デパート藤丸は発展する帯広を象徴するものになった。  
 しかし、戦時色は次第に強まり、日中戦争から太平洋戦争へ、長蔵は1945(昭和20)年2月24日、終戦を待つことなく病死した。

 『開拓の歳月遠し虎落笛(もがりぶえ)』    

 この句は、長蔵の妻ツラが詠んだ弔句である。  
 戦後、藤丸は中心商店街の顔として発展を続け、市民に親しまれた。高度成長経済がピークに達すると流通も大きく変化し、いわゆる全国的に大型店が進出した。地場資本のデパートは次第に姿を消し、道内で残ったのは帯広の藤丸だけとなった。十勝経済の底力と創業者長蔵の不屈の精神は、脈々と生きていたようだった。  
 2023(令和5)年、藤丸は累積赤字が表面化、これに耐えられなくなったのか閉店を決意、122年の長い歴史に幕を降ろした。4代目社長藤本長章を中心とする経営陣、社員、関係者の必死の努力もむなしく、まさに刀折れ矢尽きたような最後だった。十勝愛に燃える青年実業家が、藤丸のノレンを守ろうと、新藤丸株式会社を設立、計画準備を進めている。
 


 


藤本 長蔵