上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1465回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和5年11月28日(火) 話 題 十勝野に人あり 人に歴史あり −そのふる里は−[18] |
特別寄稿 【富山県と十勝】―その縁(えにし)―[3]
資金を準備 渡道した安村治高丸 富山県速星村出身の安村治高丸が、現在の上士幌町に入植したのは、1907(明治40)年だった。しかし、安村は4年前、音更駒場に入植していたので、上士幌は2度目の開拓地。駒場は陸軍馬政局が種馬所を開設することになったため、用地買収の対象になったからだ。 安村は富山で育ち、ブラジルで大農場経営を夢見たが、母の反対で十勝開拓に転じた。資産を処分し、資金10万円を用意、十勝入りの途中、札幌でアメリカ製のプラウやハローのほか石炭ストーブまで買い込んでやってきた。上士幌では600町歩の原野に小作人を入れ開墾を進めたが、アイヌも多数使った。 安村はやもめ暮らしだった。郷里で安村家の家系が絶えては困るので、妻と子供を富山に帰したのである。このせいか開拓地では子供をかわいがった。本を買って贈り、『勉強しろよ』と励まし、簡易教育所の建設運動が始まると、真っ先に用地を寄付した。 若い頃から農学書を取り寄せ、アメリカ・ヨーロッパの勉強をしていた安村は、十勝種馬所と開拓民の橋渡しを務め、馬産改良に成果を上げた。豆の品種改良にも力を入れ、試験栽培に成功した大粒の中長うずらは、安村中長と名付けられ、管内各地に普及した。 乳牛を増やし、木製の半地下サイロを建てたのも、管内で初めてでないかといわれる。豊富な知識と人柄を慕い、多くの公職が舞い込んできたが、これだけは絶対に引き受けることはなかった。上士幌神社の小高い境内に、安村の功績をたたえ、開拓のクワを担ぐ、ブロンズ像が建てられている。 |