上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1467回普段着のとかちミーティング


開催日 令和6年5月30日(木)
話 題 帯小百周年記念誌に「赤い山〜」
     −子守唄のこと

 1996(平成8)年発行の帯広小学校開校百周年記念誌「大樹抱雲」に次のような記載がある。

赤い鳥

赤い鳥小鳥 なぜなぜ赤い     
赤い実を食べた (北原白秋作)  

 この有名な童謡は、明治40年作といわれているが、大正初期の作のものであろう。この童謡の原歌(もとうた)は、帯広地方随一の子守歌にあるようだ。

赤い山青い山
「ねんねの寝た間に 何しょいの 小豆餅の とち餅や 
赤い山へ持って行けば赤い鳥がつっつく 
青い山へ持って行けば青い鳥がつっつく 
白い山へ持って行けば白い鳥がつっつくよ。」
 
 とち餅やがでてくるところを見れば原々作は本州にあるのではなかろうか。小豆餠の色は赤。とち餅は黒赤色である。(岩波新書、わらべうた参照) とする一文が載っている。※「岩波新書」は「岩波文庫」の間違いと思う。  
 私は、この一文を発見したとき、わが意を得たりと喜んだ。なぜならば、この子守唄は、明治40年に東京の本郷書院が発行した「日本民謡全集」に『子守唄 十勝國 山本露滴報』として初めて活字になっているが、同時に、先述と違う子守唄も同時に紹介されている。それら子守唄を調べていくと、類似する子守唄が他の地域にもあることが分かってくる。このことから私は、この子守唄は、純粋な「帯広地方の子守唄」ではなく、「帯広地方に伝わる子守唄」と考えるべきだと結論づけたのである。  
 そう考える私は、赤ちゃんを「ねんね」と呼び、なおかつ、「とち餅」を食べる生活習慣が古くからあり、その上でこの帯広・十勝と人的つながりのある地域を調べたのであった。辿り着いたのが「福井県大野郡北谷村」(現福井県勝山市北谷町)である。北谷村は、明治30年に帯広に開拓団として入植した「越前団体」に村民が参画しているのだ。現在の北谷地域ではこの子守唄を歌ってはいない。しかし、記録は残している。とち餅を食べる習慣もある。  
 となれば、この子守唄を親善大使とし、帯広・十勝と勝山・北谷の人々が交流を深めることは意義あることだと思うのである。いかがだろうか。
 


 



 

開校百周年記念誌 帯広市立帯広小学校