上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1468回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和6年6月24日(月) 話 題 まちづくりに「物語」は必須条件@ −新一万円札と帯広− |
この7月3日、日本銀行から、新しい一万円、五千円、千円の各お札が発行されます。そのお札の顔も、福沢諭吉から渋沢栄一、樋口一葉から津田梅子、野口英世から北里柴三郎にそれぞれ変わります。その中の一人、新しい一万円札の顔になる渋沢栄一と十勝の関係は、渋沢栄一らが創立した十勝開墾合資会社の農場が清水町の熊牛にあったことから、この十勝では特に清水町がさまざまな取り組みをしてまちづくりの機運を高めています。その機運づくりは、渋沢の出身地埼玉県の深谷市との交流等々、そのプログラムは多種多様なものなっています。誠に結構!と賛美の声を送りたいと思います。でも、もう一つ、この十勝には渋沢栄一の足あとがあるのです。そのことがこれまでほんのわずかでも話題にならないことに歯がゆさを感じてきました。 しかし、新しい一万円札発行の7月3日までにあまり時間がありません。この際、例え、「幻の渋沢男爵農場」じゃないかと揶揄されようとも、事実は事実として今一度世に出す役目は今この帯広に生きる者にあるとも思うのです。よって、その証拠物件?の全文を数回に渡って紹介したいと思います。その文章は、昭和39年11月10日発行の「大正村史」の中にあります。発行者は帯広市長吉村博です。村史の79ページにはこう書かれています。 =十勝開墾農場= ●越前団体の上流、幸震村二十号から五十号まで「二十九年区画札内原野」のほぼ半分を占める千二百万坪(四千町歩。三千六百二十町歩ともいう)の大地積である。住民たちは「渋沢男爵農場」とも呼んでいた。 ●渋沢栄一を主脳とする十勝開墾合資会社は、十勝国河西・河東・上川・中川の四郡三千五百万坪(註・明治三十二年二月の報告書では「貸付地三千六百万坪、此反別一万二千町歩」となっている)の貸下予定存置を得て、明治三十年四月に設立された。 ※会社設立のために提出された実測面積に内訳:@クマウシ原野1,510万坪(5,000ha)、ニトマップ原野934万坪(3,000ha)、サツナイ原野1,186万坪(3,900ヘクタール)。 |