上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1469回普段着のとかちミーティング


開催日 令和6年6月25日(火)
話 題 まちづくりに「物語」は必須条件A
     −新一万円札と帯広−

 =続:十勝開墾農場=(大正村史より)  

●その当初の役員は、業務担当社員渋沢栄一・渋沢喜一・大倉喜八郎・田中源太郎・田中平八・監査役中村太三郎・植村澄三郎という顔ぶれであった。(註・ただし会社設立届は、測量作業が想像以上に困難であったため、二度まで延期して三十一年二月になっている。)  

●はじめの資本は百万円としたが、数次にわたって減資、最終的には十九万円となった。  

●土地の測量は渡辺勘三郎によって明治二十九年に行われ、三十年には測量隊を派遣して詳細に調査した。測量隊に七月五日から十五日まで札内川の両岸二千四百万坪(八千町歩)を調べたが、西岸は「過半高丘ニシテ地味不良ナルハ勿論、水利ノ便ニ乏シク、耕収共ニ見込ナシ、其地積は凡ソ千万坪アルベシ。と判断した。 これに反して東岸を  

●「頑ル有望ニシテ、地味佳良ナラザル部分モ水利ニ富ミ、牧場トシテハ適当ノ土地ナリ」 との見解をくだしている。そこで札内川西岸地域と上川郡のニトマップ原野と の交換願書を提出、九月二十七日付で認可を受けている。  

●ともかくも、無償貸付の農場としては一億五千万坪華族組合農場(石狩国雨竜郡。明治二十二年設立、同二十四年主脳者の三条実美の死により分散)に次ぐ大構想の農場であった。  

●計画によれば、第一期の十年間に千六百戸の小作人をいれて千五百八十九万八千九百十五坪(五千二百九十九町六反三四)を畑とし、十八万九千九百三十九間の道路を開き、三万四千八百七十一間の排水路を掘ることになっていた。

 まだまだ、この遠大な開墾計画の説明は続くが、最初の計画通り、札内川西岸 の調査報告書が、「厳しいものはあるが何とかなる」という内容であったな ら、大正地域も当初から開墾地域に選ばれていた可能性もあったのではないか と思ってしまうのである。