上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1470回普段着のとかちミーティング


開催日 令和6年6月26日(水)
話 題 まちづくりに「物語」は必須条件B
     −新一万円札と帯広−

=続々:十勝開墾農場=(大正村史より)   

●その一方、六百五十八万三千百七十坪(二千百九十四町三反九十)を牧場とし、牧草畑など四十一万三千八百坪(百三十七町九反三三)を開墾、道路十八万二千間を開き、牧柵八千八百間を建設して、牛四百八頭・馬三百七十七頭を飼うというものであった。  

●札内原野についていえば、五百八十八万余坪(約千九百六十町)が畑目的で、残りは牧場目的地になっていた。  

●ところが、故障が百出して、事業は一向にはかどらなかった。札内原野の農場用地には三十二年に小作人をいれる見込みを立て、三十一年中に居小屋四十棟を建てて食糧も準備したが、事業不振のため、ついに実現をみなかった。  

●初年度の三十一年が干害・霜害・水害にたたれたため開墾成績があがらず、新移民は二の足を踏み、社員は前途をあやぶんで出資しなかった。

●そこで会社は、やむなく起業方法を変更して規模を縮少、明治三十二年二月、千九百七十万坪(六千五百六十六町六反六六)を返還した、  

●その際、札内原野の千二百万坪は、そっくり国有未開地に戻されたのである。 以上が、「大正村史」にある全文です。

●印にしたには、より読みやすくしたいとす る判断であり、村史の書き方とは違っていますが。  十勝開墾合資会社の設立は、1897(明治30)年2月です。北海道庁に十勝地方 の土地貸付申請中だった3,630万坪(12,000ha)渋沢栄一は58歳でした。そ の渋沢栄一が十勝に足を運んだのは、1908(明治41)年8月です。この前の年、 つまり1907(明治40)年に旭川から帯広までの鉄道「十勝線」が開通します。帯広 から釧路までの「釧路線」はすでに1905(明治38)年に開通済です。渋沢は、この機をとらえ、妻子を伴う北海道旅行をします。旭川から釧路までの旅もあり、その時清水熊牛の農場視察をするのでした。その時同行していた娘愛子の日記の中にこう書かれた箇所があります。

●八月二十五日 火 最後晴 今日はおびひろへゆくべき予定なりしが、父上昨夜より少しく風の心地におくはせば明日まで此処にて養ひ給ひ、直に釧路に向ふ事となりぬ。(渋佐栄一伝記資料29巻より)

 何とも残念な記述です。もし、この時渋沢の体調が不調でなかったら間違いなく 帯広の地を踏み、もっと具体的な言動を残してくれたと思うのです。残念!!新一万円札は、そんな思いを込めてサイフに納めたいと思う今日この頃です。