上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1264回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和2年7月13日(月) 話 題 とかち・消えた学び舎の風景[128] −幕別町立新和小学校− (1904〜1987) |
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≪あゆみ≫ ■明治37年 5月14日、茂発谷(もはちゃ)簡易教育所として開校。 ■明治41年 4月1日、茂発谷教育所と改称。 ■大正06年 4月1日、茂発谷尋常小学校 ■大正07年 9月12日、猿別尋常小学校所属恩根内特別教授所として開校。 ■昭和02年 4月1日、新和尋常小学校に改称。 ■昭和08年 10月10日、共和尋常小学校に改称。(茂発谷、新和両尋常小学校が併合) ■昭和16年 4月1日、共和国民学校に改称。(国民学校令) ■昭和22年 4月1日、新和小学校に改称。(新小学校令。6.3制) ■昭和42年 12月10日、校章、校歌制定。(開校60周年記念式典挙行) ■昭和62年 3月31日、閉校。4月1日、幕別小学校へ統合。 新和地区は、茂発谷(もはつや)と恩根内(おんねない)の二つに分かれる。 明治33年3月、香川県綾香郡羽床村から西川専助氏が一族とほか20戸を率いて茂発谷に移住し開拓に入っている。一方、恩根内には大正5年に高橋与三兵衛氏ら7戸が合資会社新田帯革製造所十勝製渋工場所属の農地に入地している。82年の歴史を持つ新和小学校の通学区域を語る時、この二つの地域に開校した学校を並列して考えないとその沿革は語れない。それぞれに、強い地域と学校のつながりを感じるからだ。閉校時の資料に目を通すと、茂発谷、新和北、新和南、新田牧場の4公区から10人の児童が通学していたとある。そして新年度には入学する児童は見込めないため閉校やむなしとなったのである。校歌の作詞は制定時の校長坂田元宏先生。 |
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(文責:上野敏郎) |
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幕別町立新和小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏) |
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幕別町立新和小学校 校歌 (文&絵:鎌田博文氏) |
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