上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1266回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年7月17日(金)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[130]
     −幕別町立中里小学校−
      (1910〜1998)

 ≪あゆみ≫
■明治43年 4月1日、糠内尋常小学校上糠内特別教授場として開校。
■昭和14年 8月31日、上糠内尋常小学校として独立。
■昭和16年 4月1日、上糠内国民学校と改称。(国民学校令)
■昭和19年 10月1日、中里国民学校と改称。
■昭和22年 4月1日、幕別町立中里小学校と改称。(6.3制)
■昭和23年 10月1日、校歌の発表会を開催。(作詞 福島尺歩)
■昭和41年 3月22日、校歌制定。(作詞 簑島一見第七代校長)
■昭和43年 12月18日、校章制定。(入賞者 島田一第八代校長夫人)
■平成11年 3月31日、閉校。4月1日、糠内小学校へ統合。

 中里地区は、明治30年前後に大須賀粂三郎氏ら数戸が入地。当時は糠内地区の一画でしかなかった。明治41年に富山県や岐阜県から34戸が入地してから行政区域を上糠内とした。昭和2年、糠内を起点として忠類に通じる道路が竣工すると移住者が相次ぐようになり、部落名を「中里」と改称。その移住者の出身県は、富山県が一番多く、次に岐阜県、福島県、宮城県の順となる。開校時のエピソードに、今でいう登校拒否事件がある。行政は校舎の建設地を、下台にある橋本宇吉郎氏の所有地と決め開校したが、この場所に賛成しない高台の大須賀牧場の小作人の子弟は誰一人登校しなかったというのだ。やむなく大須賀牧場内に第二校舎をつくりそこでも授業を開始することにした。しかし、今度は下台の子弟が登校拒否、もめにもめた末、両者が納得する他の場所に校舎をつくり解決したというのだ。何とも言えないが、開拓者魂の意地の張り合いがなせる業のようにも思えてくる。ある種の地域愛が見えてくるではないか。作り話のような実話である。

(文責:上野敏郎)
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幕別町立中里小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)


幕別町立中里小学校 校歌
 (文&絵:鎌田博文氏)
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[廃校で消えた学び舎と校歌]
(浦幌町 中学校編 5回目)

浦幌町立常室中学校
開校 昭和22年  |   閉校 昭和43年3月31日
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  上野敏郎へのメールの宛先はt-ueno@octv.ne.jpです。