上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1271回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和2年7月31日(金) 話 題 とかち・消えた学び舎の風景[135] −池田町立美加登小学校− (1926〜1966) |
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≪あゆみ≫ ■大正15年 4月1日、信取尋常小学校附属パンケ沢特別教授場として開校。 ■昭和16年 3月、信取尋常小学校美加登分教場に昇格。 ■昭和23年 4月、池田町立美加登小学校に改称。 ■昭和40年 12月16日、火災で校舎全焼。 ■昭和41年 7月31日、高島小学校へ統合。 美加登地区及び美加登小学校に関する情報はあまりに少ない。北海道地名大辞典によれば、美加登という地名は昭和14年から始まる。もともとは、池田町大字信取村(のぶとりむら)の一部だったらしい。14年時の世帯数は35戸。この地域の開拓の始まりは、明治の末期、高島農場に入植した者がこの地に転住。しかし、土地そして気象条件が悪すぎて転出者が続出したという。また、昭和51年12月発行「池田町の教育T」によれば、昭和29年度の児童数は17人、クラスは1つで、教員1人、講師1人とある。参考までに、同資料から美加登小学校に関係する箇所(66ページ)を抜き書きしておく。※信取(のぶとり)とは、アイヌ語のヌプウㇳル⇒原野の間の意。 3.信取尋常小学校附属ペンケ沢特別教授場 ※ペンケ⇒上の小さい川の意。 大正9年6月13日、川合村大字居辺字居辺原野ペンケ沢上流にペンケ沢特別教授場が設けられた。創立認可はこれより前の1月24日に下りており、2月19日にはすでに16坪の校舎が竣工しており、工費950円の中475円は地方債の補助で、あとの半額は関川祐喜の寄附によったものであった。(昭和6年4月1日パンケ沢特別教授場に統合される) 4.信取尋常小学校附属パンケ沢特別教授場 ※パンケ⇒下の小さい川の意。 パンケ沢の最初の入植は大正8年4月13日とあり、年々戸数も増え昭和元年には20戸、119人であった。昭和4年になると28戸、216人に増え、昭和6年には学令に達する児童が男女合わせて31人を数えている。当然、学び舎の設置の声が上がることになる。こうした声が大正15年4月1日の信取尋常小学校附属パンケ特別教授場の創立につながることになる。なお、この教授場は昭和13年に当時のお金で1,300円の町費で増改築され、同16年3月に美加登分教場に昇格するのであった。 校章、校歌の記録は不明。 |
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(文責:上野敏郎) |
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池田町立美加登小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏) |
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昭和41年 美加登小学校 新聞記事 十勝日報新聞社 |
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