上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1274回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和2年8月7日(金) 話 題 とかち・消えた学び舎の風景[138] −池田町立富岡小学校− (1911〜1986) |
||||||
≪あゆみ≫ ■明治44年 5月1日、十佛第二尋常小学校附属東台幹線特別教授場として開校。 ■大正15年 7月1日、町制施行。 ■昭和11年 4月1日、幌加尋常小学校と改称。 ■昭和16年 4月1日、富岡国民学校と改称。(国民学校令) ■昭和22年 4月1日、池田町立富岡小学校と改称。(6.3制) ■昭和46年 10月31日、校章制定。(開校60周年記念式典挙行) ■昭和57年 3月24日、校歌制定。 ■昭和61年 3月31日、閉校。4月1日、池田小学校へ統合。 富岡地区を説明する資料は余り多くはない。富岡小学校の閉校記念誌によれば、この地区に最初に入植した人は明治27年の石井宗吉氏、次が明治29年の三寺堪六氏とある。しかし、池田町史関連の資料によれば、「今日の富岡地区に最初に入植したのは、池田農場の小作人をしていた三寺与作や高島農場の小作人をしていた岩本捨吉、川本文郎右エ門らである。ともに明治44年の入植であった。」となる。様々な資料が存在しても、ここは史実を明らかにすることが目的ではない。せいぜい、三村堪六氏と与作氏は親子関係だろうかと思う程度に納めたい。いずれにしても、明治の中期に、十勝開拓に人生をかけた開拓者20人が、「払い下げ申請書」を出したことからこの地域は大きく変わっていくのである。明治22年3月20日のことである。開拓が進んでも地域住民は苦しい暮らしの中にいても子どもたちの教育を忘れることはなかった。最初の教授場の大きさは15坪だが、その費用は全額部落民の寄付で賄ったのである。このこと一つ取り上げるだけでも、開拓魂の奥深くに潜む教育にかける期待が伝わってくるではないか。 |
||||||
(文責:上野敏郎) |
||||||
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ | ||||||
池田町立富岡小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏) |
||||||
池田町立富岡小学校 校歌 (文字&絵:鎌田博文氏) | ||||||
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
|
||||||
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |