上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1276回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和2年8月14日(金) 話 題 とかち・消えた学び舎の風景[140] −池田町立居辺小学校− (1905〜1995) |
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≪あゆみ≫ ■明治38年 9月20日、中川郡凋寒村居辺簡易教育所として開校。 ■大正06年 4月1日、中川郡川合村居辺尋常小学校に昇格。 ■大正12年 4月1日、校章制定。 ■大正15年 7月1日、河合村を「池田町」と改称。 ■昭和16年 4月1日、中川郡池田町居辺国民学校と改称。 ■昭和22年 4月1日、中川郡池田町立居辺小学校と改称。 ■昭和25年 4月1日、中川郡池田町立居辺小中学校と改称。 ■昭和26年 校旗制作。 ■昭和37年 5月27日、校歌制定。 ■昭和43年 4月1日、中川郡池田町立居辺小学校と改称。 ■平成07年 3月31日、閉校。4月1日、高島小学校へ統合。 昭和38年発行の「池田町地名考」は、凋寒(ちょうかん)村の凋寒は、アイヌ語のセオロサムに語源があるとする。セオロサムとは、貝殻のある所の意味だが、漢字は当て字。『凋寒村』について別の資料には「シボサム村」とか「シオサム村」とある。「池田町地名考」はそうではないが、「しぼさむ」の方が何故かいい雰囲気に感じる。さて、池田町の教育の始まりは明治27年に開設された私塾からとされている。しかし、居辺地区はそれからおよそ10年遅れで学校設立の動きが起きたのである。中心になって奔走した人物は黒田嘉市氏、松浦鶴次郎氏、沢井忠右ヱ門氏の三人であった。もちろん、住民あげての協力もあり目出度く明治38年9月20日開校、翌21日には授業開始となった。そこには15人の児童の姿があった。そして90年の学びの歴史を積み重ねて送り出した卒業生は719人を数える。正に教育の真骨頂、「無から有を生む」教育の力を見せているようだ。 |
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(文責:上野敏郎) |
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池田町立居辺小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏) |
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池田町立居辺小学校 校歌 (文字&絵:鎌田博文氏) | ||||||
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