上野敏郎の | |
上野敏郎の今週のコメント |
第1277回普段着のとかちミーティング |
開催日 令和2年8月17日(月) 話 題 とかち・消えた学び舎の風景[141] −池田町立大森小学校− (1902〜1995) |
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≪あゆみ≫ ■明治35年 4月9日、第二蓋派(けなしば)簡易教育所の設置が認可。 10月1日、蓋派村蓋派簡易教育所と改称して開校。 ■明治37年 5月16日、高島尋常小学校と改称。 ■明治39年 4月1日、凋寒(しぼさむ)村誕生。 ■明治42年 7月10日、信取尋常小学校と改称。(高島尋常小学校から分離) ■大正02年 4月1日、凋寒村から川合村に村名変更→字名を蓋派から大森に変更。 ■大正15年 7月1日、町制施行。(川合村⇒池田町) ■昭和12年 1月1日、大森尋常小学校と改称。校章制定。 6月1日、校旗制定。 ■昭和16年 4月1日、大森国民学校と改称。(国民学校令) ■昭和22年 4月1日、大森小学校と改称。(6.3制) ■昭和26年 9月15日、校歌制定。(開校50周年記念式典挙行) ■平成07年 3月31日、閉校。4月1日、高島小学校へ統合。 明治2年、蝦夷地が北海道と改められ、十勝国中川郡蓋派(けなしぱ)村が誕生した。蓋派は、アイヌ語のケナシパのことで「川沿いの木原の上手」の意。「池田地名考」(昭和38年発行)によれば、大森4線あたりの利別川両岸の岸位まで一面が木原であったとのこと。この事からこの辺を利別川沿いの木原の頭、つまり林の上とし地名をケナシパとしたのだろうとする古老の話を載せている。ちなみに、高島地域の旧称は「木の端」と言っていたようだが、アイヌ語の呼称はこの本にはなかった。このケナシパ原野に明治26年、徳島県人畑中甫一氏が36人一行と入植。そして明治29年には、「高島」の地名に大きな影響を与えた横浜の高島嘉右衛門氏がこの地に農場を開設している。明治35年の簡易教育所開設の数年前にすでに私塾があったことからも分かるように、この地域の開拓は越中加賀、徳島出身者によって急速に進んだ。 |
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(文責:上野敏郎) |
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池田町立大森小学校 校舎 (画:菅野孝雄氏) |
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池田町立大森小学校 校歌 (文字&絵:鎌田博文氏) | ||||||
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