上野敏郎の
         上野敏郎の今週のコメント

第1278回普段着のとかちミーティング


開催日 令和2年8月19日(水)
話 題 とかち・消えた学び舎の風景[142]
     −池田町立青山小学校−
      (1902〜1995)

 ≪あゆみ≫
■明治35年 4月9日、下利別簡易教育所の認可下りる。
      7月1日、開校。
■明治39年 11月1日、下利別尋常小学校と改称。
■大正15年 7月1日、町制施行。
■昭和14年 9月7日、下利別が青山、豊田、信取の三分割に地番整理。
■昭和15年 3月31日、青山尋常小学校と改称。
■昭和16年 3月31日、青山国民学校と改称。(国民学校令)
      4月30日、校章制定。
      8月2日、校旗新調。
■昭和22年 4月1日、池田町立青山小学校と改称。(6.3制)
■昭和26年 9月14日、校歌編曲⇒青山音頭作成。
■平成07年 3月31日、閉校。4月1日、利別小学校へ統合。

 この地に開拓の鍬を最初に入れたのは福井県人青山奥左エ門氏一行だった。明治29年のこと。地区名の「青山」は、ここに由縁がある。翌30年には福井県のみならず富山、徳島、兵庫の各県から約30戸の団体が入植した。教育施設はすぐには整備できるはずはなく、説教所の僧侶が「読み、書き、手習い」を教えた。明治32年には下利別学校が設置されたとする記録が残っている。下利別学校で教える教科は「修身・国語・算術」、就業年限は4年とするなど、その取り組みは他の教育所と遜色はなかった。この積み重ねがあり、明治35年7月に下利別簡易教育所が開校、児童数は男女合わせて44人。その後、急速に児童数は増え、明治41年11月に新校舎が誕生する。その建設費は部落住民の寄附で賄ったが、建設に必要な労働力は十勝監獄の囚人であった。

(文責:上野敏郎)
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池田町立青山小学校 校舎
(画:菅野孝雄氏)


池田町立青山小学校 校歌
(文字&絵:鎌田博文氏)
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[廃校で消えた学び舎と校歌]
(清水町 中学校編 2回目)

清水町立熊牛第二中学校
開校 昭和25年  |   閉校 昭和46年3月31日
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  上野敏郎へのメールの宛先はt-ueno@octv.ne.jpです。